なぜ私は変わらないのか(境界線の力)

人狼は、相手や自分の発言・行動の解析を、文脈に応じて作り変えるアドリブの能力を競う政治ゲームだけど相当にキツイ。場面の解析が追いつかん上に、場面を説明するストーリーを作るのでさえ、ほとんどできていないか、できても部分的になって矛盾する。

仕組み構造を場面から切り離して、さらに好きな場面だけを切り出す決断をしている。どういうことかというと、

①振る舞いと仕組み構造の関連を把握しづらい
→②母の振る舞いが好ましかったり、好ましくなかったりする仕組み構造がわからん
→③好ましい妄想に引きこもる。周りの人が好ましい振る舞いだけを提供してくれるよう、笑顔で欺きながら関わりつつ、好ましくない側面を恐れて拒絶する。

こんな感じに、場面と人とを、望みつつ拒絶する生き方。

「場面の境界と、場面と仕組み構造の境界」

物語を産み直すのは難しいし、そもそも望んでもない、と。

どうしたもんかのお。

仕事も、進路も、人との交流の一つ一つも、めんどくさいなあ。

まぁ、仕組み構造を含めた1つの振る舞いとして認識すれば、対策になる。

目で見える振る舞いの裏にあたる、仕組み構造とは、そもそも1だから1つだからね。気が重いけど。

働き方改革について

根本的に自由を得るには、根本的な変化と現実的な変化がセットで達成しなきゃいけない。なぜなら、その根本的な変化を可能にする技術を習得するためには、根本的な変化を可能にする技術を学びながら、それを継続可能にする現実も必要だから。言い換えれば、日々の生活と会社生活がガラリと変えれる様を見せて、裁量を得る必要がある。居心地よく生きる場で生きる場を得るとき、場を作り出す自分、人、環境は、セットで変化する。

家という環境を変えるには、会社での僕の可能性を提示するのが妥当な方針である。したがって、主として会社での生き残りをかける必要があるけど、生き残って何かを為すには、突き詰めると、観点を共有ライブラリとしてお互い必要なときに道具として使える仕組みが必要で、そのためには結局大なり小なり組織の変革を起こすことになる。変革への合意を妨げるNoをYesに変える技術の習得と実践により、目の前の相手が仮にトラウマを伴う価値観から強烈なNoを突きつけたとしても、それを変えていけるので、僕たちは最高のパフォーマンスと関係性を得る。当然お金も仕事の依頼も、人に引っ張られてこちらに回ってくる。根本的な変化を可能にする技術の実践と現実の変化は、分かち難く結びついている。

そのへん、ちゃんと実証したいし、会社にいることを逆手にとって色々と実験したい感ある。

ちなみに今から書くことは僕が今いる会社とは関係ない話です。

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考えてみれば不思議なことで、足が悪ければ杖を使ったり人の手を借りる。必要なら、手を借りた相手を手伝うなりして、お返しをすればいい。ところが、一般には頭の一部が悪いときには、同じようには扱われない。単に、嫌がられるだけだ。

さて、これをどう考えていこうか。

身の回りに、こんなことはないだろうか?

部門の中では様々なノウハウがあって、暗黙知だったり、誰でも使えるツールとして部分的には共有資産になっていたりはするけど、実は他部門を見たら似たような資産が眠っていて、必要に応じてそれぞれで改修したりしているし、昔から根強く、個人に一通りのことができるよう求める空気がある。。。とか。もし、あなたの会社にはそのノウハウが全くないなら、つまり未開の地ならば開拓して、住居を立てて、居場所を得れば暮らしていけると思うけど、どうだろうか。

働き方改革のキモは、仕事の効率化と品質向上(バグが少ないとか、壊れないとか、セキュリティ的に安全だとか)だ。結局作る製品の質が悪かったら、やり直したり評判が落ちたりして収益悪化につながり、結局、いずれ効率化と品質向上をやるしかなくなるので、先行で対策を打ち出す必要がある。

仕事の効率化と品質向上を達成するためには、製品の性質とか、製品の作り方に関する様々な認識を道具にするしかない。つまり、観点を出し合って、それ全部を、誰でも使えるツールにすることが前提として必要だ。

もしそれができれば、個人の問題は解決しうる。例えば、設計書を書くのが得意な人と、プログラムを書くのが得意な人がいたとする。それぞれ自分の領域は得意だけど、他の領域はちょっと苦手だ。なのに、1人1人が設計からプログラムをやるのは効率的だろうか?別にそういう縦割り境界線を引く理由はなくて。2人分の仕事を、それぞれ得意なところをこなせば済むはずなのだ。

だから、次のことが必要になる。
働き方改革のために観点を出し合う必要性への合意。
・観点を出し合って、いろんなルールへの境界線を引き直すことへの合意。
・観点を共通資産化する技術を学ぶことへの合意。

つまり、観点の横の風通しを良くすることが、鍵になるだろう。そして、風通しを得て組織が本来の力を出すとき、目の前の相手が持っている決断という強烈なNoでさえも変えたことで最高のパフォーマンスを発揮する、最高に生き生きとしたチームが、顕現する。

癖と決断

僕は、振る舞いと構造の間に断崖絶壁みたいな境界線を感じる。それがなにをもたらしたのか。

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好きな場面だけを見ていたいのに、現実には人は百面相で、ときどき見たい場面とズレてしまって辛くなる。その仕組み構造もわからない。

人と一緒に楽しい場面は共有できない。ときどき、辛くて痛くて怖くて寂しくて憎い。僕以外の人たちだけで楽しい場面を共有しているなんて、ズルくて嫉妬する。

でも人のことは、人の振る舞いの背景にある仕組み構造がわからない。僕はきっと、好きな場面と出会うことはないんだろう、ならせめて、好きな場面を妄想して引きこもろう。

それが古い軸。

その軸から放つ言葉は、自分の耳が喜ぶためのモノローグになっている。

Noの癖こそ、お金のタネ

Noの癖をお金に変えるゲーム

僕は、振る舞いと構造の間に断崖絶壁みたいな境界線を感じる。

・振る舞いをイメージする◯ 構造をイメージ×
・口で説明する◯ 文章や図で説明する×
・ものを使う◯ ものを片付ける×
・人の振る舞いを勝手流解析する◯ 人の構造を仕組みで解析する×

みたいなことが起きて、決断の遠因になった。

実際これまで、こういう癖を発見してもらうことも理解してもらうこともなかった、気づかれていなった課題。クリアしたら金にできる気がする。

能力の凸凹、人格の凸凹、観点の凸凹を正確に把握し、活用し、素の自分を発揮しまくれるチームが作れる技術があったら、きっとそのチームに入りたいし、その技術は欲しいよね?居心地いいし、楽しいし、成果も出るし。

じゃあ、どんな技術ならできるか。それもあるんだよなぁ。

癖のまとめ

なんか色々とやりづらくて、何年も何年も苦労して困ってたんだけど、やっと自分のインプットアウトプット方式にまつわる、大事な癖がわかった気がする。

・・・

物語なら感覚的にわかる。
でも、物語の設定資料、つまり、物語の動く舞台や登場人物の構成は感覚的にわからない。

動きはわかる、けど、構造はわかりづらい。

喋れるけど、文章や図に書けない。文章や図から喋れない。

部屋に必要なものはわかるけど、部屋を片付けることは難しい。

行き当たりばったりの、とっ散らかった物語になりがちで、構造的な不備に気づきづらい。

動きと構造の橋渡しをしてくれるペアが必須。

・・・・・

構造のインプットアウトプットは常に大きな苦心を伴う。

なるほど、自分の苦しみが、どんな設定に由来しているのか、ピンとこなかったわけだ。なかなか成績が伸びなかったはずだ。研究が、好きなのに辛かったはずだ。人の特徴を、認識しづらかったはずだ。

もし、僕の言葉がわかりやすい場面があったとしたら、構造を把握するのが辛過ぎて、シンプルな構造としてしか把握ができないという、この制約の賜物です。

癖3

物語なら感覚的にわかる。
でも、物語の設定資料、つまり、物語の動く舞台や登場人物の構成は感覚的にわからない。

動きはわかる、けど、構造はわかりづらい。

喋れるけど、文章や図に書けない。文章や図から喋れない。

部屋に必要なものはわかるけど、部屋を片付けることは難しい。

行き当たりばったりの、とっ散らかった物語になりがちで、構造的な不備に気づきづらい。

動きと構造の橋渡しをしてくれるペアが必須。

癖2

物事のインプット、アウトプットには、五感フル動員する。モノローグではなく、ダイアローグにする。

身体感覚との紐づけを意識的に行う。ロジックと身体感覚、図と身体感覚、物語の筋書きと身体感覚、物語の文章と身体感覚、それらの間がやたらと乖離している。

構造を知ってもよくわからない。構造は複数の文脈の中にある。プログラム同様、その動きを見て初めて構造が理解できる。プログラムを読むときも、メソッド振る舞いを定義し、それを可能にするための構造を作ってゆく。

つまり、「構造を知りたければ、むしろ動きをインプットせよ」だ。動きを作るのはもっと良い。動きを作るときに構造に触れる。構造の目的がより動きに反映される。既存のプログラムをはじめとする論理的な体系は、基本的に具体的なシチュエーションで動かして考えよう。これで、構造と動きの身体感覚化が可能になる。

身体感覚からの言語化、図解化はどうするのか。