なぜ私は変わらないのか(境界線の力)

人狼は、相手や自分の発言・行動の解析を、文脈に応じて作り変えるアドリブの能力を競う政治ゲームだけど相当にキツイ。場面の解析が追いつかん上に、場面を説明するストーリーを作るのでさえ、ほとんどできていないか、できても部分的になって矛盾する。

仕組み構造を場面から切り離して、さらに好きな場面だけを切り出す決断をしている。どういうことかというと、

①振る舞いと仕組み構造の関連を把握しづらい
→②母の振る舞いが好ましかったり、好ましくなかったりする仕組み構造がわからん
→③好ましい妄想に引きこもる。周りの人が好ましい振る舞いだけを提供してくれるよう、笑顔で欺きながら関わりつつ、好ましくない側面を恐れて拒絶する。

こんな感じに、場面と人とを、望みつつ拒絶する生き方。

「場面の境界と、場面と仕組み構造の境界」

物語を産み直すのは難しいし、そもそも望んでもない、と。

どうしたもんかのお。

仕事も、進路も、人との交流の一つ一つも、めんどくさいなあ。

まぁ、仕組み構造を含めた1つの振る舞いとして認識すれば、対策になる。

目で見える振る舞いの裏にあたる、仕組み構造とは、そもそも1だから1つだからね。気が重いけど。