勉強も問題解決もなんか異様にトロくて。実に悶々とする。

ものを考えるときのプロセスが、自分に合う場合とそうでない場合があるらしい。

まず原則として、僕には考えること、感じることは、視覚や聴覚というより、それらを含めた、手触りならぬ脳触り?質感?重さ?心象?とにかく謎の身体感覚が伴う。そっちが主だ。抽象概念だろうが関係ない。音楽なら、音の組み合わせそのもののもつ手触り、みたいなもの。その身体感覚の射影が考え感情。したがって、身体感覚の解像度が、考え感情の解像度に直結する。これをよく忘れる。忘れると、何を言われても読んでも聞いても、ほぼ一切理解できなくなる。会話が極めて困難になる。身体感覚が回復するまで寝るしかない。

ついついうっかり、身体感覚や感情を無視して理屈で考えようとすることが多いんだけど、この目論見は大抵失敗する。頭が痺れを覚え、起きているのに意識が朦朧としたまま見続ける悪夢のような感覚にとらわれる。眠いというより、寝ながら必死でもがくような感覚。びっくりするぐらい使い物にならない。身体感覚も現実味も感情も考えも、全くぼやけて像を結ばない。ろれつがまわらず、言葉は発せず、悪夢の檻の中から抜けれないような感覚で、それを表現することさえできなくなる。

身体感覚でものを考え感じることは、インプット、アウトプットに甚大な影響をもたらす。

インプット時は、文章(書き言葉)、図示、口頭説明の全てがほぼ必須。というか、身体感覚に変換できるかどうかが大事。文章のみのインプット、口頭説明のみのインプットは基本的に望み薄。文章が口頭説明レベルの粒度と例示を有してれば可。文章がすでに有してる身体感覚と紐づいていたら可(そもそも新しいことをインプットしていないからね)。

アウトプット時は、文章、図解は極めて困難で、身体感覚を犠牲にする。抽象・具体の行き来は壊滅的。例外は、インプットの情報が整理されてて、そのとき得た身体感覚の組み合わせで事足りる場合。口頭で人に向けて説明する瞬間は、理解と整理がすすむ。予め整理した内容を話す選択肢はほぼない。話す瞬間に身体感覚化して整理される。ブログによるアウトプットは整理の役に立たないことの方が多い。無理矢理言葉を捻る際に、身体感覚にダメージを受ける。聞き手を具体的にイメージして、実際に話す身体感覚を呼び起せたら、その限りではないけれど、あんまりうまくいったことがない。プログラムは動かせるので、ある程度までは身体感覚の助けを借りれる。

とりあえず、今ぼんやりわかるのはこんなところか。あ。そうそう。質問ができなかったり、何に困ってるか説明できないのも、身体感覚が構成できないから。身体感覚が鈍いと、言語も存在しないので、「考えてみたけれど、何にも困ってないし、質問はない」と発言することになる。

学習障害やろなこれ。読字や計算、推論自体はできる。できるんだけど、なんだろう、概念の形成、変換コストが異様に高い気がする。理解コストが高いから、理解するときは結果的に要点から身体感覚化しやすい。説明がわかりやすいとしたら、それは障害の恩恵だろう。身体感覚化するコツがつかめたら、もう少しうまく色々と回せるはずだけど、わからん。

「1」によるセラピーの統合

「1」とは、AでもBでもなく、AにもBにもなれる実在だけがある、という。唯一絶対的な言明である。

この言明は、心理学におけるセラピーと密接な関連がある。セラピーでは、例えば「私は死んだ方がいい」などの自己認識の固定を解くことにより、精神疾患を治癒する。

自己認識とは、自分をどう思うか、すなわちアイデンティティ。「自分は〇〇だ」「自分は××じゃない」という分類で作る、自分を含む範囲、つまり境界線のことだ。アイデンティティの境界線固定を解く範囲には、いくつか段階をつけることができる。別にどうわけてもいいんだけど、例えばつぎの四段階を考えることができる。

1. 心〜身体
2. 身体〜地球(人類)
3. 地球(人類)〜宇宙
4. 宇宙の有〜無

多くのセラピーは、1か2の範囲を得意とする。「1」は1から4までを全て網羅し、アイデンティティの境界線を消す。なぜなら、「AでもBでもなく、AにもBにもなれる」ので、どんな境界線に対しても、境界線の中をA、境界線の外をBとすれば、その中と外の区別をつけない「1」のアイデンティティを考えることができるから。「1」のアイデンティティには境界線がない、無境界。当然、AとかBなどと述べることはできない。述べてしまえば、中と外が生まれてしまうからだ。

このように、「1」は、セラピーの目的である、人間がAにもBにもなれると思うような変化のうち、最大の変化を与える。

故に、「1」は、あらゆるセラピーに対して、人間が今ここ変化可能であることの最も基本的な理論的根拠を与え、各セラピーを統合する。

「1」を応用するには

「1」は、Aでもなく、Bでもなく、AにもBにもなれる実在。この、「1」からAやBを存在させる仕組みは、別名認識という。まとめると、この「1」は、存在が存在する、認識の仕組み、ということだ。

例えば、目が最初から見えなかったなら、僕らは視覚的な模様や形の存在について全く議論できなくなる。触覚的な模様や形の存在について語れたとして、視覚的な模様や形の存在とは関係がない。

ここでは、「1」が何とでも応用可能であることを説明する*1

Q1. 「1」を知っても、物理法則を自由にできません。

A1. まず、物理法則も認識だ。それが、自分の考えの範疇にあろうがなかろうが、認識しなければ存在しない。物理法則を自由にできないと思うのは単に、「物理法則を自由にする」と思えるための認識をまだしていないから。「1」はAにもBにもなれるので、その認識は当然可能だし、考えになくとも全ての物理法則を認識して生み出しているのは事実として自分だ。この粒度の「1」から言えるのは、間違いなく可能だ、ということだけ。

Q2. 「1」を知っても、時間を自由にできません。過去にタイムトラベルも可能なのでは?

A2. 物理法則と同様。ちなみに、時間は逆方向に進まないのには理由がある。

「1」により、AでもBでもないけど、AにもBにもなれる。なら、時間も空間もないけど、時間にも空間にもなれる。人類の感覚上、宇宙の始まりからの138億年分の変化が、時間も空間もないところから、今ここをめがけて生まれてくる。全ての瞬間瞬間はないところから常に生まれ消滅し、止まらない。AにもBにもなれるなら、AでないしBでもないことも同時に可能でなくちゃいけないから。

こうして、138億年分の変化が生まれては消滅し、また生まれている。これは時間のかからない変化だから*2、人間に知覚不可能なだけで、ある意味では時間は何度でも巻き戻っている。人間は、過去からの連続として今をとらえるクセがあって、巻き戻りを経験はしない。過去にタイムトラベルをしたければ、巻き戻りが知覚可能な、認識の条件を探す必要がある。過去は実在しないけれど。

Q3. なぜ、その138億年のうちの今ここを認識し、過去でも未来でもないのか。

A3. その質問は時間ありきの質問。時間は実在しない。138億年も実在しない。説明のため便宜上そう表現したに過ぎない。

*1:実応用上は、シンプル過ぎて使えない。AにもBにもなる仕組みでもって、既存の知識を説明する必要がある。仕組みの粒度は、既存の知識の説明、知識の創出に十分なら特に問わない。

*2:時間がかかるなら、その時間はどうなっているのだろうか?少なくとも人間に観測可能な時間ではあり得ないし、時間は実在ではない。

「1」について聞いてもらうには

ストーリー必要や。同意を得られるストーリーが。

理屈は、ストーリーの根拠、背景、設定資料の一環。表に出すのは必要なとき必要なだけ。それで、ポエミーなストーリーと、それが可能である理論が並存する。それができないわけがない。僕自身はポエミーな動機付けの方がそもそも好きだから感情も乗せやすい。

同意を得るとは、相手の涙に響くこと。涙を解くのが「1」であるとの理解を得ることだ。それは、現実の悩みが解決することであるし、アイデンティティにくっついた、奥深い×にもう固定しなくていい、というメッセージと、その根拠だ。

あとは、「1」と出会えばいいだけだ。

人間の可能性を語るには

プリンと言ったり、原子の塊と言ったりできる以上、プリンも原子の塊も実在しているとは言えない。

同様に、AもBも実在せず、AにもBにもなれる「何か」だけが実在する。

「何か」も「何かでない」も実在せず、「何か」か「何かでない」が議論できる気がするだけだ。この「何か」は言語化できない。

AもBも実在せず、AにもBにもなれる「何か」だけが実在するので、五感、存在、アイデンティティ、感情、考えは実在しないし、どのような五感、存在、アイデンティティ、感情、考え、形態も取り得る。

ここまできて初めて、人間の可能性を議論できる。

だから、自分の感情考えを変えるなら、自分の存在、五感で感じる対象全てが実在しないことを徹底的に認識する必要がある。

Q1.やっぱAとBをどうしても感じるし、先回りの結論のようにもみえる。例えば、ギターの達人がスケールからやった方が効率いいよとかいうみたい。実際には憧れた曲をひたすらコピーする遠回りな練習をめちゃくちゃしてて、達人なってからスケールの大事さに気づく。

A1.自分が使い慣れている価値観からなら、どうとでもイチャもんはつけれる。なぜなら、AもBも実在せず、AにもBにもなれる実在しかないと言わずとも、Aだとか、Aじゃないとか、Bだという議論は当然できるからだ。
これは単に選択の問題。西洋哲学が終わらずに更新され続けるのも、言葉に自分の観点で解析して、新しいストーリーを作れるから。例えば、実存主義という立場の哲学がある。平たく言えば、どう生きるのも自由だ!俺たちが選択できるんだ!という主張。出てきた経緯は省く。これに異を唱える人が現れる。いや、自分で選んでるって言うけどさ、なんかのカラクリがあって、その仕組み通りに動いてるのを、自分で選んでるって、思いこんでるんじゃね?アホくさ。簡単に反論はできるんだよね実際には。*1

Q2.「別にどっちでも良いや」は東洋哲学っぽいのかな

A2. AもBも言えるところを見てる意味では、そう思うかもしれないんだけど、東洋哲学はその前提が大事。「AもBも実在しない」んだけど、AとかBとか言える側面は認識可能なので「AにもBにもなれる」。出発が「AもBも実在しない」ってところがクソ重要。それを東洋哲学では無とか言うのね。

「AもBも実在しない」んだけど、AとかBとか言える側面は認識可能なので「AにもBにもなれる」って状態は、それだけ言われてもピンときにくいけど、割とそれっぽい例えが可能。このAとBを映画とかVRとかに置き換えてみればいい。要は見てる本人めっちゃのめり込むけど、そんな気がしてるだけ、という状況。これはまさに、

「AもBも実在しない」んだけど「AにもBにもなれる」って状態。僕らの認識はVR。そうまとめてもいい。ヘッドセットを被れば何にだってなれて、何だってそれっぽく体験できる。VRなので、失恋しようが、先が不安になろうが所詮はVRなので、言うべきことは「いや、おまえ、それVRやで笑」一つしかない。

Q3. 今から街中で娘に声かけよう(注:僕は苦手)

A3. その発想は、ブッダが苦行をやめたことと深い関係がある。悟ってるかどうかなんて外からわからないので、苦痛をどれだけ耐えれるかで確かめようぜってノリがインドで流行ってね。ブッダもそれしたんだけど、あれ、これ逆効果じゃね?と気づく。

なぜなら、「苦痛を耐えれるなら悟ってる」「苦痛を耐えられないなら悟ってない」を、それぞれAとBに置きかえたら、めっちゃAとBの話しかしてないでしょ。AもBも実在してないことを理解してるどころか、してないことを露呈してることになる。

怖いVRは怖いやん結局。そんなゲームせんでもええし、やって怖がってもええんや。それを理解して選択する自由は常にある。周りには何とも見えるし、何とでもイチャもんはつけれるものでしょ?だから、これは結局本人の選択の問題でしかない。悟ってなくてもこのくらいのやりとりはできるし。周りがどうかは、関係ないし。

自分は存在せず、自分が認識する対象も存在せず、ただ生々しくそう感じるだけと本当にわかると、実際怖くもなくなるらしいけど、まぁ、めっちゃ疑うよね普通に。

疑うのは結局、「AもBも実在しない」とわかってないから。

ミスってるとこうやって、自分が自由になってないという厳然たる結果で、突きつけられる。

リミッター外すのには間違いなく使えるだろうから、良ければお使いいただければと思う。選択の問題だけどね。

僕は他に納得したアプローチがないので、これでやってみる。

*1:こういう仕組みで説明する立場を構造主義という。

旗印

令和になり、これからの時代を築くために何が必要か考えていた。

時代の様々な変化状況に、耐えるための軸と、応じるための柔軟さとは何か。

時代を牽引する旗印を、打ち立てられないんだろうか。

仮に、その旗印をAだと言ったとする。しかし、「Aだ」と言ってしまったら、「ほんまにA?Bじゃね?」って言えてしまう。物事の解釈は人の観点の数だけ存在する。AもBも言えるなら、そのどちらも実在しているとは言えない。

情報を伝達するための言語は、本当は何も伝えあっておらず、聞き手の妄想の材料になる。言語は妄想を共有する道具だけど、逆に共有を妨げる原因も生んでしまう。言語には、その両方の性質がある。デカルトは「我思う、故に我あり」と言ったけど、自分が思う自分はそもそも実在せず、共有できないことになる。人間は不完全な認識、不完全な解釈を、ついつい正しいと思い押し付けたくなる。でも言語の性質上、押し付けることは不可能だ。聞き手の妄想を膨らせるだけだからだ。歴史を見ればわかるけど、どれほどの暴力を行使しても、何人殺しても、解釈の違いは埋まらない。

AもBも実在しない。Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何かだけが実在と言える。実際にAともBとも言えるのだから、そう言えるような側面については認めなくちゃいけない。でもそれは、ほんの一部分を描写したに過ぎない。手を見てみよう。手には、表も裏もあるけど、表だけが手だろうか?裏だけが手だろうか?その表裏一体が手であって、どちらも正しく実態を表さない。

こんな単純なことが、しかし日常的に見過ごされている。いろんなAとBを考えてみればわかる。例えば、A:キリスト教、B:イスラム教にしてみたら、どうだろう。あるいは、A:私、B:他人。はたまた、A:好きな私、B:嫌いな私。際限なく作ることができる。

何かを語れば、賛成と反対に分かれてしまう。異論が生まれてしまう。だから、知っている言葉で語られる西洋哲学は破られてきた。東洋哲学にしても、「梵我一如」「無我」などいろんな表現を試みてきたけれど、後世になればその解釈は分かれてゆくし、禅に至っては言語が邪魔すぎてついには言語を棄ててしまう。

認識可能な解釈は共有できない。いろんな認識がくっついてくるから、既存の言語による解釈は許されない。こうなってくると、新しい言語、認識の仕方が定められない言語を構成するしかない。その言語で「Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何か」を表すしかない。この言明ですら、「Aだ」と言っているに等しく、様々な解釈が生まれてしまう余地ばかりだ。一度、一掃せねばならない。

「Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何か」は、それ自体をどうこう言うことはできない。AともBとも区別できない無境界である。先人の中にはこれを1と呼んだ人も多いので、本当はどうこう言えないんだけど、1って普段使うから危険だけども、便宜上ここでは1と呼ぶ。

この1は、人間にとって唯一共有可能なものだ。認識可能なものは共有できない。認識不可能なら、ごちゃごちゃ言う余地がないから共有できる。

唯一の実在が認識不可能たる1であり、AでもBでもないのなら、絶望する私、無力な私、憎い相手、そんなものの残る余地が、どこにあるだろうか。もちろんそういう存在にもなれるけど、認識可能なものは絶対的ではありえない。ならば、一体どこに絶対的な限界があって、一体何に、絶対的に絶望するというのだろうか。全ては実在しない。それが唯一の旗印。本当は何にでもなれる。1は、AにもBにもなれるから。この1は、全ての人、全ての観点、全ての認識を成り立たせる、認識不可能な仕組みとも言える。認識不可能だから、「1はAだ」「1はAじゃなくてBだ」とは言えない。1それ自体には解釈の余地がないからこそ共有できる。 Aにもなれて、Bにもなれて、AでもBでもない1は、不変にして変化そのもの、無限の可能性、創造破壊の根源。当然、数学にも物理学にもなれるので、産業の創出にも大きく寄与することができる。

つまり、認識不可能な1を共有することは、AでもBでもなくAにもBにもなれると知ることは、実は、誰もが今ここを自由に認識し、生きて行けるよう促すことに、繋がっている。

だからまずは、こう思う習慣をつけてみればいい。Aでもない、Bでもない。絶望もない。無力もない。〇〇は実在しない。

全ての悲しみや苦しみを、認識を消し終わったら、次にこう考えてみればいい。Aにもなれる、Bにもなれる。絶望にも希望にもなれるほどの、規定できないほどの可能性故に万能である。認識不可能な1だから、私は〇〇になれる、と。

ペインアート

痛みを燃料に、世界を紡ぐ。世界の先には痛みがある。その永劫回帰が、私という世界の存在形式だ。

常に絶望し、同時に夢想し続ける。

認識のアイアンメイデン。

この世界の空は、よだかの星に満ちている。