ツンデレヒール
私の苦痛、怒り、悪意、逃避的妄想、そして哲学の力を合わせて、何か面白いことができないかと考えていたら、思いついた。
悪役をやればいいんだ。
ただし、哲学的に。
哲学は、今を超えて、次へと進んでいく力だ。
だから、哲学的に成された悪意は、哲学的に打ち倒される宿命をそもそも認めている。
だから、悪意をどう現実にしたところで、
はっきり言ってツンデレに読み替えてしまうことが可能だ。
日本にはこの読み替えに長けた文化が既に存在する。
「萌え」文化だ。
属性萌え、関係性萌え、シチュエーション萌えなどなど多種多様にわたる。
例えば属性萌えなら、どんな悪意もツンデレに読み替えて、愛して乗り越えてしまう。
彼らオタクにかかれば、認識の操作は至極簡単で、日常的なものだ。
いかなる悪意に対しても、
明日を歩んでいける。
ならばこそ、安心して悪意を実行することもできる。
人間は、今を超えていけるから。
「ツンデレ乙」
そう言ってしまって、構わない。
(参考)
俺の友人は属性萌えが激しい
https://sp.seiga.nicovideo.jp/comic/32570
学習性無力感
だいたいこんなような、心理学の実験がある。
犬を3つのグループに分ける
①電撃を浴びる。頭を動かすと電撃は止まる。
②①が電撃を浴びると、自分も電撃を浴びる。
③電撃を浴びない。
①の犬は頭を動かして止まることを学習するが、
②の犬は、止める努力をしなくなる。何をしても無駄で、頭を動かしても変わらないからだ。
②の犬の条件を①と同じく、頭を動かすと電撃が止まるように変更しても、犬は頭を動かそうとしない。
こうした、経験によって何をやっても無駄と学習し、無力感に陥る現象を、学習性無力感という。鬱に似た症状を発症するらしい。
***
今風に言えば、僕に起きたことは、家庭内モラルハラスメントによって、学習性無力感に陥っている。その痛みに対して逃避を続けてきたけど、その逃避行動も阻害される。
逃避すら無駄だという実感が、当たり前のことのように思われるのは、こういう説明をし得る。面白い。
そして、僕はモラルハラスメントを、隠匿的に使う狡猾なタイプの人のような気がする。
ある意味で、教育の成果だね。
機能不全家族へようこそ。
私も、怒りが深いな。。。
哲学すごくない?
今日は、哲学すごくない?という話。
飲茶氏の書籍が、また一つ文庫本になった。以前に出た、史上最強の哲学入門シリーズと合わせて読むと面白い。
14歳からの哲学入門: 「今」を生きるためのテキスト (河出文庫)
- 作者: 飲茶
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2019/03/06
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
飲茶氏によれば、哲学者は新しい価値を見出す人のことらしい。
一般人①「A_0がいい!」
一般人②「A_0はいや!」
哲学者 「...A_1でよくね?」
一般人①②「「ほんまや」」
あとやることは同じ。
一般人①「A_nがいい!」
一般人②「A_nはいや!」
哲学者 「...A_n+1でよくね?」
一般人①②「「ほんまや」」
例えば、デカルト。デカルトが生きたのは、教会の権威が弱まり、合理的思考が流行った時代。
ならば、哲学者たちはそこに挑む。合理的思考の前に、そもそも人間の認識は正しいのか、その根拠は何か、限界はあるか、と。
デカルトは、人間の認識の正しさを疑いまくってみて、疑いえない認識があれば、確実な認識にたどり着くからとにかく歌うというアプローチ、方法的懐疑によって、挑んだ。例えば、
「Aを認識する」
これは、正しいか正しくないか、わからない。しかし、
「「Aを認識する」を疑う」ことができる。これが正しいか正しくないかわからなくても、「「「Aを認識する」を疑う」を疑う」ことができる。マトリョーシカのように、いくらでも。
つまり、「...を疑う私」の存在だけは疑い得ない。疑いもまた認識だから、
「...を認識する私」は間違いなく存在する(①)。
一方、「人間は不完全で有限だから、完全で無限の実在(=神)を認識することはできない。」(②)
故に、「人間が無限の実在を認識するのは、それが人間の外から与えられたものだから。故に、無限の実在たる神は存在する。」(③)
神は完全なので、合理的でもあり、創造物も合理的。したがって、人間も合理的。これが、科学的な認識の正しさを示す根拠になっている、
「我思う、故に我あり」
だ。
なるほど、「ほんまや」である。
ところで、この「ほんまや」に挑んでみたくはないだろうか?
じつは、東洋哲学なら、この更に先を行くことができる。それも、2500年前の哲学で、である。
それでは、ヤージュニヤヴァルキヤ師*1にご登場いただこう。
先ほど、「...を認識する私」は存在する(①)と言ったのに対して、彼は疑問を投げかける。
「なるほど。では、①を認識しているのは誰だろうか?」と。
そりゃ「「...を認識する私」を認識する私」(①')じゃないの?
そう答えたなら、ヤージュニヤヴァルキヤ師は、不気味に微笑んで、きっとこう返す。
「それは、あなたが考えていることであって、あなた自身ではない。あなたのいう『私』とは、誰のことかね?」
これはかなり意地が悪いというか、答えられないタイプの質問である。
「...するのが私」という私は、キャンバスの上に描いた私のようなもので、描いている本人ではあり得ない。屏風の中の虎を出してもらわねば、一休はこれを捕らえられない。
どのように答えたとしても、その答えを言っている本人こそが私であり、答え方なんてそもそも関係ない。
「故に」
と、師は結論を言い渡す。
「私とは、...に非ずとしか言えない」
なんと!
唯一疑い得なく存在する認識主体の私を突き詰めると、語り得ない!
存在として語り得ない。これは、存在しないのと何も変わらないことになってしまう。言わば、
「我思う、故に我無し」
である。
ただし、この「無し」は注意が必要で、便宜上こういう字をあてたものの、正確ではない。そもそも語り得ないので、「存在しないのが私」と語ることすら許されない、本来なら有無の概念を超越した境地*2である。正確もへったくれもない。
さらに、彼なら、顎を撫でながらこう続けるかもしれない。
「すると儂は、神かな?」
どういうことかというと、先ほど「人間は不完全で有限だから、完全で無限の実在(=神)を認識することはできない。」(②)
と言ったが、これにも実は補足が可能である。
「私」を不完全で有限なものとして語り得ない以上、「私」もまた完全で無限の実在である。完全で無限の実在は区別できないので、『私』とは神のことである。このことは全ての人間に対して成り立つ。
つまり、
「我思う、故に神たり」(②')
なのだ。同時に、
「『私』は存在しないから、神も存在しない」(③')
が導かれ、デカルトを超えました。
少し注意してほしいのは、認識不可能と認識しているだけで、認識不可能という認識が成立している以上、実在を否定しているわけではない。なぜなら、否定という認識も不可能だからだ。
すごくないだろうか?
「我思う、故に我神たり」
と、言い切れてしまう。完全で無限の実在であることが、わかってしまう。
あまりに眩しいと目がくらんで見えないように、凄すぎて認識不可能なのが、「私」だという証明。
どうだろう、哲学。
すごくないだろうか?
Do
ごくごく当たり前のことだったんだけど、前向きに死ぬ物語を考えてゆくと、生きて何するを考えるのと、なんにも変わらなかった。全力で悔いなく死のうと考えるほど、むしろ前向きになるし、死を焦点においてるから、思考が単純かつ本音に寄り添う形になる。
で、なんかいろいろしようと思ったら、
誰かの力を借りないとなんもできんやん?
人に必要とされることは必須やん?
お金も人もめっちゃいるわい。
そんな当たり前のことだったんだけど、
楽しく芸術的に死ぬためにはどうしても要る。
僕は僕にとっての価値だけに関心を持ち、磨き続けるのが本質だから、人と交流しながら、お金も交流する場とは何か、ちょっとちゃんとやんなきゃ、なんにもならない。
自分という場がどんなコンテンツになるか、
自分という場をどんなコンテンツにするか、
ガンガントライしよう。
PDCAなんかじゃない。
もうDoしかないんだ。
Do Do Do Do...
DoDoDoDoDoDoDoDo...
ごっこ遊び
いろいろと、素描を残しておこうと思う。
やりたかったけれど諦めたこととか、今からやってみても、いいのだし。
音楽を聴くこと
詩を書くこと
世界に潜む物語を描くこと
美味しいものを食べたり、作ったりすること
見たことのない美しい景色と出会うこと
いっぱい悲しむこと
いっぱい想うこと
いっぱい悔しがること
いっぱい怒ること
人と関わるのは、まだ難しい。
好きでもないのに、哲学の本が増えた。
数学とかも少しある。
たぶん、哲学や数学自体が知りたいんじゃなくて、そういう言葉を作り出す世界を、自分の中にも映し出してみたいんだと思う。
面白そうな演劇があって、観に行くのが大変で、なんとか廉価な脚本は手に入った。見よう見まねで、演じてみたい。演じながら、描こうとした世界に旅立ってみたい。
数学や哲学への憧れは、たぶん、世界そのものを渡りたい気持ちなんだ。きっと。音楽や、絵本の住人と出会うときもそうだったように。
自分の中で生き生きと躍動する様を、体全体で経験してみたかった。ごっこ遊びが好きなんだ。
ほとんどできないけれど。
ほぼ盲目と言ってよいくらいに。
それでも、まだ。
かもめのジョナサン
「そもそも天国などというものは、本当はどこにもないんじゃありませんか?」「その通りだ、ジョナサン、そんなところなどありはせぬ。天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とはすなわち、完全なる境地のことなのだから」
(中略)
「よいか、ジョナサン、お前が完全なるスピードに達しえた時なは、お前はまさに天国にとどこうとしておるのだ。そして完全なるスピードというものは、時速千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。だが、完全なるものは限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、それはすなわち、即そこに在る、ということなのだ」
不意にチャンの姿が消えたかと思うと、突然、15メートルほど離れた水際にあらわれた。
(中略)
「神がかりになることはない!」とチャンは言い、そのことを何度もくり返した。
「飛ぶために信心はいらなかったらはずだ。これまでのお前に必要だったのは、飛ぶということを理解することだったではないか。」
(中略)
「そうだ、本当だ!おれは完全なカモメ、無限の可能性をもったカモメとしてここに在る!」
- 作者: リチャードバック,Richard Bach,五木寛之
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/06/26
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る