旗印

令和になり、これからの時代を築くために何が必要か考えていた。

時代の様々な変化状況に、耐えるための軸と、応じるための柔軟さとは何か。

時代を牽引する旗印を、打ち立てられないんだろうか。

仮に、その旗印をAだと言ったとする。しかし、「Aだ」と言ってしまったら、「ほんまにA?Bじゃね?」って言えてしまう。物事の解釈は人の観点の数だけ存在する。AもBも言えるなら、そのどちらも実在しているとは言えない。

情報を伝達するための言語は、本当は何も伝えあっておらず、聞き手の妄想の材料になる。言語は妄想を共有する道具だけど、逆に共有を妨げる原因も生んでしまう。言語には、その両方の性質がある。デカルトは「我思う、故に我あり」と言ったけど、自分が思う自分はそもそも実在せず、共有できないことになる。人間は不完全な認識、不完全な解釈を、ついつい正しいと思い押し付けたくなる。でも言語の性質上、押し付けることは不可能だ。聞き手の妄想を膨らせるだけだからだ。歴史を見ればわかるけど、どれほどの暴力を行使しても、何人殺しても、解釈の違いは埋まらない。

AもBも実在しない。Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何かだけが実在と言える。実際にAともBとも言えるのだから、そう言えるような側面については認めなくちゃいけない。でもそれは、ほんの一部分を描写したに過ぎない。手を見てみよう。手には、表も裏もあるけど、表だけが手だろうか?裏だけが手だろうか?その表裏一体が手であって、どちらも正しく実態を表さない。

こんな単純なことが、しかし日常的に見過ごされている。いろんなAとBを考えてみればわかる。例えば、A:キリスト教、B:イスラム教にしてみたら、どうだろう。あるいは、A:私、B:他人。はたまた、A:好きな私、B:嫌いな私。際限なく作ることができる。

何かを語れば、賛成と反対に分かれてしまう。異論が生まれてしまう。だから、知っている言葉で語られる西洋哲学は破られてきた。東洋哲学にしても、「梵我一如」「無我」などいろんな表現を試みてきたけれど、後世になればその解釈は分かれてゆくし、禅に至っては言語が邪魔すぎてついには言語を棄ててしまう。

認識可能な解釈は共有できない。いろんな認識がくっついてくるから、既存の言語による解釈は許されない。こうなってくると、新しい言語、認識の仕方が定められない言語を構成するしかない。その言語で「Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何か」を表すしかない。この言明ですら、「Aだ」と言っているに等しく、様々な解釈が生まれてしまう余地ばかりだ。一度、一掃せねばならない。

「Aも可能、Bも可能な、AでもBでもない何か」は、それ自体をどうこう言うことはできない。AともBとも区別できない無境界である。先人の中にはこれを1と呼んだ人も多いので、本当はどうこう言えないんだけど、1って普段使うから危険だけども、便宜上ここでは1と呼ぶ。

この1は、人間にとって唯一共有可能なものだ。認識可能なものは共有できない。認識不可能なら、ごちゃごちゃ言う余地がないから共有できる。

唯一の実在が認識不可能たる1であり、AでもBでもないのなら、絶望する私、無力な私、憎い相手、そんなものの残る余地が、どこにあるだろうか。もちろんそういう存在にもなれるけど、認識可能なものは絶対的ではありえない。ならば、一体どこに絶対的な限界があって、一体何に、絶対的に絶望するというのだろうか。全ては実在しない。それが唯一の旗印。本当は何にでもなれる。1は、AにもBにもなれるから。この1は、全ての人、全ての観点、全ての認識を成り立たせる、認識不可能な仕組みとも言える。認識不可能だから、「1はAだ」「1はAじゃなくてBだ」とは言えない。1それ自体には解釈の余地がないからこそ共有できる。 Aにもなれて、Bにもなれて、AでもBでもない1は、不変にして変化そのもの、無限の可能性、創造破壊の根源。当然、数学にも物理学にもなれるので、産業の創出にも大きく寄与することができる。

つまり、認識不可能な1を共有することは、AでもBでもなくAにもBにもなれると知ることは、実は、誰もが今ここを自由に認識し、生きて行けるよう促すことに、繋がっている。

だからまずは、こう思う習慣をつけてみればいい。Aでもない、Bでもない。絶望もない。無力もない。〇〇は実在しない。

全ての悲しみや苦しみを、認識を消し終わったら、次にこう考えてみればいい。Aにもなれる、Bにもなれる。絶望にも希望にもなれるほどの、規定できないほどの可能性故に万能である。認識不可能な1だから、私は〇〇になれる、と。