人間の可能性を語るには

プリンと言ったり、原子の塊と言ったりできる以上、プリンも原子の塊も実在しているとは言えない。

同様に、AもBも実在せず、AにもBにもなれる「何か」だけが実在する。

「何か」も「何かでない」も実在せず、「何か」か「何かでない」が議論できる気がするだけだ。この「何か」は言語化できない。

AもBも実在せず、AにもBにもなれる「何か」だけが実在するので、五感、存在、アイデンティティ、感情、考えは実在しないし、どのような五感、存在、アイデンティティ、感情、考え、形態も取り得る。

ここまできて初めて、人間の可能性を議論できる。

だから、自分の感情考えを変えるなら、自分の存在、五感で感じる対象全てが実在しないことを徹底的に認識する必要がある。

Q1.やっぱAとBをどうしても感じるし、先回りの結論のようにもみえる。例えば、ギターの達人がスケールからやった方が効率いいよとかいうみたい。実際には憧れた曲をひたすらコピーする遠回りな練習をめちゃくちゃしてて、達人なってからスケールの大事さに気づく。

A1.自分が使い慣れている価値観からなら、どうとでもイチャもんはつけれる。なぜなら、AもBも実在せず、AにもBにもなれる実在しかないと言わずとも、Aだとか、Aじゃないとか、Bだという議論は当然できるからだ。
これは単に選択の問題。西洋哲学が終わらずに更新され続けるのも、言葉に自分の観点で解析して、新しいストーリーを作れるから。例えば、実存主義という立場の哲学がある。平たく言えば、どう生きるのも自由だ!俺たちが選択できるんだ!という主張。出てきた経緯は省く。これに異を唱える人が現れる。いや、自分で選んでるって言うけどさ、なんかのカラクリがあって、その仕組み通りに動いてるのを、自分で選んでるって、思いこんでるんじゃね?アホくさ。簡単に反論はできるんだよね実際には。*1

Q2.「別にどっちでも良いや」は東洋哲学っぽいのかな

A2. AもBも言えるところを見てる意味では、そう思うかもしれないんだけど、東洋哲学はその前提が大事。「AもBも実在しない」んだけど、AとかBとか言える側面は認識可能なので「AにもBにもなれる」。出発が「AもBも実在しない」ってところがクソ重要。それを東洋哲学では無とか言うのね。

「AもBも実在しない」んだけど、AとかBとか言える側面は認識可能なので「AにもBにもなれる」って状態は、それだけ言われてもピンときにくいけど、割とそれっぽい例えが可能。このAとBを映画とかVRとかに置き換えてみればいい。要は見てる本人めっちゃのめり込むけど、そんな気がしてるだけ、という状況。これはまさに、

「AもBも実在しない」んだけど「AにもBにもなれる」って状態。僕らの認識はVR。そうまとめてもいい。ヘッドセットを被れば何にだってなれて、何だってそれっぽく体験できる。VRなので、失恋しようが、先が不安になろうが所詮はVRなので、言うべきことは「いや、おまえ、それVRやで笑」一つしかない。

Q3. 今から街中で娘に声かけよう(注:僕は苦手)

A3. その発想は、ブッダが苦行をやめたことと深い関係がある。悟ってるかどうかなんて外からわからないので、苦痛をどれだけ耐えれるかで確かめようぜってノリがインドで流行ってね。ブッダもそれしたんだけど、あれ、これ逆効果じゃね?と気づく。

なぜなら、「苦痛を耐えれるなら悟ってる」「苦痛を耐えられないなら悟ってない」を、それぞれAとBに置きかえたら、めっちゃAとBの話しかしてないでしょ。AもBも実在してないことを理解してるどころか、してないことを露呈してることになる。

怖いVRは怖いやん結局。そんなゲームせんでもええし、やって怖がってもええんや。それを理解して選択する自由は常にある。周りには何とも見えるし、何とでもイチャもんはつけれるものでしょ?だから、これは結局本人の選択の問題でしかない。悟ってなくてもこのくらいのやりとりはできるし。周りがどうかは、関係ないし。

自分は存在せず、自分が認識する対象も存在せず、ただ生々しくそう感じるだけと本当にわかると、実際怖くもなくなるらしいけど、まぁ、めっちゃ疑うよね普通に。

疑うのは結局、「AもBも実在しない」とわかってないから。

ミスってるとこうやって、自分が自由になってないという厳然たる結果で、突きつけられる。

リミッター外すのには間違いなく使えるだろうから、良ければお使いいただければと思う。選択の問題だけどね。

僕は他に納得したアプローチがないので、これでやってみる。

*1:こういう仕組みで説明する立場を構造主義という。