ヒロイズム

僕のヒロイズムは、山月記っぽい。大学3年のとき、小田和正のライブの帰りに唐突に思いついた。山月記ではトラになって絶望したまま終わるけど、僕は少し違う。というか、先がある。トラになった後の主人公が、一度は絶望に駆られて人を殺すけど、人の優しさに触れて出会いたかったものに気づき、その後は人知れず人を助け続けて、最後はかつて殺した人の仲間に復讐されて死ぬような、そんな感じの生き方。それに納得するような生き方をしたい。当時はトラじゃなくて剣士を主人公としてミクシィに殴りつけたけど、大筋はそんな話だからトラでも大差ない。

あるいは、太平洋に浮かぶ孤島の枯れた大木で、疲れた渡り鳥が羽を休めたあと、忘れ去られたまま朽ちるように生きたりしたい。慈愛と罪の清算とでもいうんだろうか。かつて誰も人を愛さず、妄想の世界に逃げ込み、人を拒絶してきた人間が、人の愛に触れ、人を愛し、かつて傷つけたように傷ついて、人に憎まれつつなお愛して死ねたら、それがいいなと。自分がかつて人を拒絶し憎んだのだから、憎む人の痛みと悲しみを思うことができるはずだ。そういう人の罪をこそ愛しいと思ってみたい。ほかに誰がこの物語を紡げるだろう。私を罪深いと思うなら思えばいい。ならばこそ愛そうと、心で決められるように。布団の中で幸せに死ねたらそれも嬉しいけど、どんな終わりだろうが、それを誇れるように死ねるなら人としての幸せは別にいらない。ワンカップ大関片手に、夜空を見上げて辞世の句を一人詠みあげて死ぬのもいい。そのストーリーを自分で紡いだなら、納得するだろうから。

最近、生前退位の話題で皇室のドキュメンタリーをやっていたけど、あれもすごかった。天皇、皇后両陛下を、失礼ながらどうしても人として見てしまうのだけど、人としてもほとんど慈悲深い英雄というか、衆生済度の誓願を地でやりきったというか、エネルギーがものすごい。ドキュメンタリーを一度見て、生きる覚悟と勇気をもらった気がした。被災地やかつての戦争地域に降り立ち、その立ち居振る舞いだけで人を突き動かしてはる姿の尊さと、彼らにふれて心を動かされたり、再興を決断していく人の居るのを見て、絶望の中でこそ反転させる決断も生まれるのを見た気がした。彼らは日本の象徴として生きてきて、彼らは日本の悲しみと強さと慈悲を表しているように思えた。皇后さまは、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を支えにしていたそうな。かなしみを消さず、誰もがもつかなしみと知り、かなしみを知るから寄り添う姿を生き方と定められた。かなしみを背負って歩いておられる。ブッダ哲学的には、苦諦あるいは一切皆苦の悟りからくる慈悲だろうか。

今日たまたま「龍樹」という文庫(中村元さんの本)読んでたけど、これも面白かった。龍樹の話というよりは仏典ベースの中村哲学の本だろし、それの過大解釈とかになってしまうんだろうけど、あんまり気にせずに書く。途中まで読んでて思ったのは、大乗仏教は多分、ブッダの説いた中身ではなく、ブッダの生き様に関心をシフトさせて大衆化したんかなと。とにかくとっつきやすい。

元の仏教は、真理が無であること悟れという、有でありながら無に到達する、論理的に矛盾しながら調和するとはどういうことか、という話で、ブッダがかつてやったみたいに瞑想しながら探求するのが主流だった。だから、金持ちで暇がないとなかなかできない、要はお高くとまったコンテンツだった。それを劇的に変えたのが大乗仏教で、ブッダが真理を説いた内容というよりは、真理を説くことで人を救おうとした慈悲深いヒーロー像を前面に押し出してキャラ付けした。無を悟る話とどう結びつくか、逆効果じゃないかと少しもにょもにょする。

曰く、衆生済度の誓いにて、苦しんでる人がいる限りは涅槃に達すまいと決断し、苦しんでる人がいる限り自らも苦しみ続ける、利他と自己犠牲的な英雄精神こそブッダの生き様である。なるほどカッコイイ。真理の探究とかようわからん小難しい理屈より、わかりやすいヒーローへの憧憬や求心力を引き起こす。そういうヒロイズムがあって、仏門に入ることはヒーローを目指すことだと、「社会的な」意味合いが変わる。悟ることが目標なのだから、社会的な意味合いがどうだろうと、到達点に変更はない。

しかしまぁ、そんなヒーローになるのだってやっぱりなかなか難しいから、ヒーローの到来を信じて待つことにする。ブッダというヒーローがいた。ヒーローはまたきっと現れる。そのために菩薩達が修行しているし、そもそもブッダが悟ったこと自体既に衆生済度は成っているから、そのブッダを念じたらそれだけで救われるという説もある(浄土教)。要は、ヒーローの到来とかヒーローのパワーの御利益を信じる信仰に移行する。仏教を、哲学から宗教へと変えたのは大乗仏教なんだ。

実際のところどうなのかなんてわかんないし、それも入り口としてそういう英雄譚を作っておいて最終的には悟りに持っていってたはずだ。空観では、衆生を救うも救われるもあまねく空だから、そうおもったならヒーローつまり菩薩じゃないっていっているし、ちゃんと大乗起信論般若経という、素晴らしい経典も備えているし。僕はそう読んだ。

なんとなく、痛みへの条件反射として、絵本的で音楽的な妄想に逃げることを繰り返す中で、ヒーロー的な主人公が、何か悲劇的で美しい主観的解析に満ちた世界を生きるような、そういう人生への意味づけをするスタイルができたんだろうと思う。

【2019.4.2追記】
面白い夢を見て、逃げて考えや感情を拒絶しても、行き着く先は無間地獄だからたぶん生まれ直したくなると思った。

夢の中で僕はほとんど見ることも聞くことも触れることも味合うことも話すこともできず感覚がない。のどが渇いたのに、それを表現したり、行動に移すための言語もなく、母を呼んだり身振り手振りで、伝えようとするも、感覚がなさすぎて手も体も感じない。手を動かしているのか、手を動かしていないのかを確かめられるほど感覚がないから、手が動いていても意思疎通に全く使えない。そんな状態で水を飲もうとする。渇きは収まらず、声にもならず、ウーと言いながら目が覚めた。夢の世界に閉じこもり、痛みを避けるために感覚を拒絶した結果がこのザマとは面白い。うっかり、感覚が欲しいと思ってしまった。人に気づかれたいと。無間地獄から逃げてきて、現実の地獄からまた逃げ戻って、また現実に戻りたくなるのは笑ってしまう。あれだけ逃げ込むことを望んでいたのに、逃げた先からやっぱり逃げたくなる。感覚が滅すると、自分で何もしようがない、逃げ込むことのできない無にもどる。存在し直すしかなくなる。その繰り返しはまさしくカルマと呼ぶのにふさわしい。この現実の中でしか、意思も自由も獲得できない。重要なことだ。ヒロイズムは生きて使命を遂げ、使命を継ぐことでなさねば。

【追記2】
新美南吉の童話集を読んで確信した。「絵本的で音楽的な妄想に逃げること」は、僕の使える力の全てだ。僕はつまるところ、今見ている世界に、自分に紐づく物語を積極的に描き、内面に投影することだけが可能なんだ。それは音楽や、匂いや、郷愁、痛み、様々な感覚が五感全てを合わせた、現実以上のリアリティとして立ち上がった共有不可能な即興的な作品の連なりであり、僕が言葉に出すもの、歌に乗せるイメージは、せいぜいその射影とか影絵程度のものでしかない。現実の場面に対する直接的な感覚とは独立に作り上げてできた、バーチャルリアリティの中に刻む不可侵のバーチャルリアリティたる心象風景の創造。道に咲く花を見て、柔らかく風を感じながら、同時に山あいの湖面と花畑、つめたく湿った風が首筋を撫で、モノローグとピアノの調べを思うことだ。

僕にとっての理解や表現とは、そうした内面に広がる宇宙を美しく築き、共有したいという衝動のようなものだったはずだ。素質らしきものがあったとしたら、それは心象風景の中では、あたかも手触りの感じられるような存在として認識可能だったから、その存在で心象風景を書けば、結果的にそれらしい言語的あるいは音楽的な表現になったに過ぎず、徹頭徹尾僕のために、僕が作り、僕が使った、表現の素材や、表現による作品の影絵に過ぎない。

僕が作った世界にはほら、こんなにきれいな体験があるんだ。だから君と一緒に見てみたい。

そういう感覚で、生き方で、それが唯一だった。