ここは

ここは他の誰でもない、私のための場所となった。

なぜなら私とは、経験を再編して心象風景を描く者であり、

私の言葉とは、心象風景の射影であるから。

しかして、親指と人差し指が、別の指でありながら、指のみでなく1つの手を成すように、

私とは、僕であり、僕でなく、

全てであり、無である。

極めて個人的でありながら、全てに向けられており、どこにも向かない、そんな心の影絵である。*1

*1:補足・蛇足・駄作: こういうのは野暮で好きじゃないのだけど。ここ、つまりこのブログに書いてある言葉は、事実であって事実ではなく、虚構の物語であって全てである。強いて言えば、このことだけが他の全てのブログの発言に対して優先する。言い訳だろうか?逆に、発言が与える影響って全く制御のきくものじゃないから、こういう断りを書いておかないと、何かあったときに、思わない形で影響してしまいそう。ほんとに嫌なのだけど、このブログは、虚構性と重要性が全てに優先する。何度も言っておくべきなんだろうな。 これから歩みうる物語の先かもしれないし、何の意味もない思いつきかもしれない。 しかし、僕にとっては何よりも重大な全てで、僕というフィルターをかけたときに浮かび上がる、作品そのものである。僕にとってはその作品が全てだから、創作であり、虚構であり、事実である。 かといって、僕以外の人のフィルターを通したときには全く違う感じ方、考え方で浮かび上がる。 だから、ここに書いてあることから、何かあなた方にとって重要な事実や、作品としての何かを読み取ろうしても構わないけれど、僕にはあなた方のフィルターを通した結果は、特に必要がない。敢えて、どんなカッコウに化けたものか、見てみたい好奇心はあるけれど。 どう思ってもらっても良いけど、それを僕には聞かせないで欲しい。僕に合わせて、僕のために書けるのは結局、僕しかいない。 そのことを知らしめるために、僕がいつでも帰ってこれるように書く。公開しているのは、たった一人がここに帰ってこれるように、居場所を建てておきたいからだ。 ゆえに、遺言めいたもの、憎悪の吐露、愛の言葉。それら全ては僕に向けた、ゆりかごの歌だ。だから、僕が誰に愛や憎しみを語ったとしても、例えばムンクの「マドンナ」に安らぎを見るように、業を描くがゆえに居場所を得るようなものだ。 傷つくのも孤独だけど、もしかすると憎むのはもっと孤独だ。憎む者が集まって何かしても、何も癒されないことがわかるばかり。憎しみに集うのではなく、憎しみの後ろにある、悲しみと痛みを癒さねばならない。 憎しみを癒すためには、憎しみに寄り添う愛が必要だ。でんでんむしが、誰もが持つ悲しみを知って慈悲を決断するなら、僕は憎しみを知りたい。