スーパーマリオワールド
なぜ「私」は悩むのか?
悩みについて考えるには、やはり「私」を知ることが先決でしょう。
このキャラ?
この身体?
この脳?
この意識?
とりあえず、「〇〇が私だ」と思い浮かんだものが「私」だとしましょう。
もし何か思い浮かんで、それが私だとすると、実はおかしなことが起きます。だって「「〇〇が私だ」と思い浮かべている」のが「私」なんじゃないでしょうか?
じゃあ、「「〇〇が私」と思い浮かべているのが私」でしょうか?
いやいや、「「「〇〇が私」と思い浮かべているのが私」と思い浮かべているのが私」ってことになりますよね?
だから、「私は〇〇だ」って言えるような「私」は「私」の定義にはならない。この意識を今経験しているから「私」は実在するって言えるけれども、「私とは、この意識を今経験する実在だ」とは決して言えないわけです。だって、もし映画マトリックスのように、ケーブルで繋がれてるのが私だとすると、ケーブルにつながれている私を語ることは不可能なのではないでしょうか?それがケーブルかどうかは知らないけれど、とりあえず、意識を今経験しているだけです。
えっ?
でも、五感で見えるし、聞こえるし、触れるじゃん、これってなんでなの?私が定義できないって理屈はそうかもしれないけど全然イメージできない?
なぜそうなるかは置いておいて、どういうことかは、結構簡単にイメージできます。
スーパーマリオワールドへようこそ!
まず、仮にあなたが今、まるで真っ暗闇の中で何にも見えず、聞こえず、触れない、五感を持たないかのような空間にぽつんといるとします。あなたはまだ、自分が何者かすらわかりません。
そんなあなたに突然!スーパーマリオのVRゲームをプレゼントします!!
起動すると、手が動く!足が動く!空が見える!ほかのプレイヤーが見える!おおクッパだ!あれはピーチ姫だ!なにこのキノコどんどんでっかくなっちゃう!
マンマミーア!
そして「マリオ」と呼ばれたあなたはもうすっかり夢中。マリオの視点で展開する、波乱万丈の物語に大興奮。
ゲームの中で、あなたは思うのです。
「そっかー、僕はこんな身体で」
「こんな服で」
「こんな手で」
「こんな声で」
「ジャンプがめっちゃすごいマリオって男だったんだ!」
いやいや笑 それゲームだから笑 初めて五感使えるようになって、VRの画面に映るもんしか見えないから、そう言ってるだけでね?仕方ないけど、それぜんぜんあなたじゃないよ笑
そう教えてあげたけど、あなたは粘ります。
「いやぁだってさ、目が見え始めたときからずっとこんな感じだよ?そんなこと言われても」「それじゃあほら、僕を鏡に映したよ。これでどう!」
いや、どうって言われても笑
まだまだあなたは粘ります。
「じゃあとっておき!ゴールした瞬間のこれ!僕がカメラに映ってるよね?これが僕よ!見れるし、聞こえるし、動かせるし、これが僕!」
だからね?その「僕」を認識する「僕」が考えれるでしょ?そのカメラごしに見てる「僕」のことよ?
それでもあなたは粘ります。
「あ、このカメラを撮ってたのジュゲムだから、もしかして…僕はジュゲム?そうでしょ?そう言いたいんでしょ?」
いやだからね、そのジュゲムを見てるあなたがね…
とまぁ、こんなふうに自分が見たり聞いたりする対象をついつい自分と思ってしまいます*1。
「私」とはVRのマリオである
まとめると、「〇〇が私だ」と思うことは、単なる画面の向こう側に映ってる自分とはなーんにも関係ないキャラクターを、うっかり自分だと思う、思い込みに過ぎないわけです。
「「〇〇が私だ」と表現できないのが私だ」と「表現する」と矛盾するので、いかなる表現も不可能だということが論理的に導けるのです。
こんな私を、矛盾承知で敢えて言うならば無です。無としか言えません。実在しません。無と表現してしまったら、やはりその無すらも思い込みということになってしまうのです。
謎が深まりました。
「この意識を今経験しているから、認識不可能な「私」は実在する」って、さっき述べていますからね。これは、逆に言えば、
「「私」が実在しないから、この意識を今経験しているとは言えない」となります*2。矛盾しました。私の実在も、意識経験も、ぜんぜん確かな思考の前提では無くなってしまいました。この私はいかにも実在してるっぽいにもかかわらず。この意識を今経験しているにもかかわらず。
これが、VRのメガネに映る画面の向こう「で」見たり聞いたり触ったりしてるっぽいけど、画面の向こう(「私」に認識される対象)に「私」はいないよ、ということです。全て意識的な活動はVRのメガネを通して見れるものだけです。マリオワールドについてだけしか、語れないのです。意識を認識するということは、VRのメガネに映った思考(某動画投稿サイトの動画再生時に横に流れていくコメントみたいな!)を見るようなものですから、認識される意識はやはり「私」とは関係ない、とも言えるでしょう。
つまり、「私」も「今経験しているこの意識」も、実は有るとも無いとも言えないね、ということになります。認識不可能だけど、「私」も「今経験しているこの意識」も生み出す何かは実在する。実在するけど、どんなふうに規定することも不可能です!こんなゲームのマリオな自分をうっかり私と思っちゃうような摩訶不思議な何かによって、「〇〇が私」とか「この意識があるから私がある」だなーんて、思っちゃっているのです。
そう!認識可能な対象の全ては思い込みで、認識不可能な実在が「私」なのです!「〇〇な私」は実在しません!
するとどうでしょうか。
「私」も「私の意識」もなく、「私の認識対象はVR画面」だとするなら、もはや「私の悩み」や「私の絶望」の、どこに存在する余地があるでしょうか?ありませんよね?雲散霧消してしまいました。あらゆるもの一切が消滅したところに、悩みは一欠片もありません。何も残らないからです。
そして再び、ゲームの主人公へ
でも、思い出してください。マリオがものすごく楽しかったことを。今ここの意識経験が実は、最高のゲームだったのです。そうとわかった瞬間、あなたの世界は一変してしまいます。だって、思い込んでいただけで、ただのVRゲームですから。VRだとわかるから、過去もへったくれもありません。いつでも今ここ思い込み直す(変化する)ことができます。そうあなたに気づいてもらうために、この思い込みの仕組みがあるのです。
今や、あなたに敵などおらず、全ては自分が主役のゲームです。そうしてあなたは、スターをとったマリオのごとく、どんなことにも恐れず傷つくことなく楽しめる、自分が思う自分を超えた無敵超人(スーパーマリオ)になって、ゲームを謳歌することができるのです。
[参考文献]
史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)
- 作者: 飲茶
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2016/10/05
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (2件) を見る
最後まで読んでくださってありがとうございました。この記事は、飲茶氏の本書籍に対する、理解と実践行動を目的として書いたものです。溢れるリスペクトが感じられるかと思います。皆さまにも是非、お手にとっていただければと思います。
現世の悩める日本人全てに贈りたい、素晴らしい本を書いてくださった飲茶氏に、心より感謝申し上げます。
*1:X=「Xを見る私」と定義するとき、このXこそが「私」だということでして、一種のフラクタルでもあります。こんなのが私だと限定すれば理解できるけれど、限定したらウソになってしまう。しかし限定しなければ、これが私だと語ることはできません。無限定なのが「私」だけどその「私」は認識できないことを、このように理解することもできるのです。なお、同じ構造の文を使うと、かなり面白いことができます。みなさん、科学者になって考えてみましょう。X=「Xを生み出す素材・構造・振る舞い」としたとき、このX(便宜上「仕組み」とでもしましょう。あるいは「万物の創造主」)を究めたいのが科学者(あるいは宗教者)です。ところが、こんなXは「私」同様に認識不可能な無限定です。なので科学者が求めたいこの「仕組み」と「私」(と「万物の創造主」)は一致し、従って「私」同様に限定した認識は不可能です。同様に、0=∞です。まるで、エッシャーの「滝」を見るようなものです。滝は上から下に向けて流れますが、この滝はどこが上でどこが下なのかはさっぱりわかりません。わかりませんが、どこかが途切れてる体で見れば、ウソだけどとりあえず滝に見えます。「私」や「仕組み」は認識できるはずだと言えるでしょうか?例えば、宇宙の法則を説明する、より深遠な理論が見つかったとしましょう。そこで終わりでしょうか?エッシャーの滝をぐるりと回って、「1つ上に上がったぞ!よし、これでもう滝のてっぺんに違いない!」と言えるでしょうか?人間の力ではそれ以上深められないかもしれませんが、それだけのことです。そのような「私」、「仕組み」あるいは「万物の創造主」を見出すことは、何とも見出せないことです(既に公案の類です)。このことは一神教を否定しません。なぜなら、限定された対象しか認識できないことがかえって、限定されない創造主を仮定しなければ「私」も「仕組み」も「万物の創造主」も説明できないことを知らしめるからです。このことを知らせることが目的ならば、むしろ私たちが限定された対象しか認識できないことこそが、神の実在をむしろ示唆する。という風に、(限定した)解釈をしたって構わないのです。
*2:逆に言えば、が雑にみえますが、古典論理で考えたらこんな風になります。 命題P「この意識を今経験している」 命題Q「「私」は実在する」 公理A1「P」 公理A2「P→Q」 を「逆に言う」と、さっき導いた 公理A3「not Q」と 公理A2の対偶「not Q→not P」 になります。まとめると「P かつ not P かつ Q かつ not Q」です。排中律(P または not P は 真)を認めない直観主義論理の立場だったとしても、「Qかつ not Q」となり、やはり矛盾します。「私」が実在すると証明できないことを、「私」は実在しないといえないとしても、意識経験については矛盾します。面白いことに、意識ですら「私」の実在証明にはならないのですね。