心の平安とは

人はなぜ幸せになれないのか

突然ですが、質問です。人はなぜ、様々な道具を作ってきたのでしょうか?様々な道具を発明してきたのに、なぜ未だに幸せになれないのでしょうか?なぜ、心の平安を得るのはこれほど難しいのでしょうか。

人の開発してきた道具をイメージしてみましょう。あらゆるところに道具との関わりがあります。空1つ見ても、天気の知識があり、生活に役立てることができます。空には光や水があり、光と水と植物を結ぶことで、植物の生産に役立てることができます。道具とは、問題を解決するものです。知識も道具であり、その知識を表現する言語は、道具を生み出す究極の道具と言うことができるでしょう。

歴史を紐解いてみれば、自然の支配や王の支配から自由になり、幸せで豊かな暮らしを望んだ歴史があります。科学哲学宗教それぞれの世界で、人間について追求し、人間についての知識を増やし、幸せになるための様々な試みの跡が見られます。良し悪しはともかくとして、戦争でさえ、既存の体制を解体して、人が本来持っている自由と可能性を誰もが享受できることへの願いが込められています。一言でまとめたら、人は、幸せになるために全知全能に近づこうとして、様々な道具を発明しました。しかし、結果だけ見れば、摩擦衝突が多種多様化し、心の平安は得られていません。これは一体、なぜでしょうか。

人の「知」の性質とは

一言で言えば、知は完全ではありません。別の言い方をすると、特定の条件下でのみ成り立つに過ぎません。したがって自分がイメージしている心の平安は、一時的な条件でしか成立しません。では、特定の条件とはどんな条件でしょうか?克服できるのでしょうか?

人が何かを見たり聞いたり考えたり感じたりする、意識無意識をひっくるめた活動を、認識と言います。全ての知は5感で得た感覚を脳で処理して得られるので、全ての知は脳のクセによる影響を受けます。脳による認識には以下に示すとおり、4つのクセがあります。

1. 部分だけをとる
2. 違いだけをとる
3. 過去と繋げてとる
4. 有限化させてとる

[出典:世界が一瞬で変わる 潜在意識の使い方]

心の平安を考えるとき、どんな条件状況なら心の平安が得られるのか、と考えていませんか?それも、脳のクセで説明することができます。

さらに、心の平安について考えるには、条件状況を満たしたかどうかの判断基準が必要ですが、これも、知の性質上、脳のクセに縛られます。このことから次に示す判断基準5つのクセを導くことができます。

1. 人は誰もが判断基準を所有している
2. その判断基準はみんなバラバラで違う
3. 判断基準を1つにしても問題
4. 誰の判断基準も完全ではない
5. それにも関わらず無意識に「完全」と思って自分の考えに支配されている

[出典:世界が一瞬で変わる 潜在意識の使い方]

したがって、脳のクセに沿って得た以上、全ての知は不完全です。特定の条件下でしか成立しないのが人間の考え感情だから、自分がイメージする心の平安は、全て特定の条件下でしか成立しない。その条件が崩れたら、成り立たない。そのことを、論理的に自分が納得する必要があります。

全知から無知へ

知を成り立たせる仕組みとはなんでしょうか?条件づけられない心の平安について考えることは、不可能に見えると思います。

実は今からご紹介する考え方を使って、条件づけられない心の平安について考えることができます。次のステップで考えてみましょう。

  1. 条件づけられない知とは
  2. 全ての知を説明するメタ知とは
  3. メタ知自身を含めた全ての知(=全知)をメタ知で手放す(=無知)

脳のクセを利用しながら、脳のクセの外について考え、脳のクセの外に出る、という言い方もできます。

1. 条件づけられない知とは

さきほどの、脳のクセのそれぞれ逆をとってみると、

  1. 全体をとる
  2. 同じをとる
  3. 今ここだけをとる
  4. 無限をとる

となります。これは、脳のクセのいずれにも当てはまらないので、条件づけられません。これを「脳のクセの外」と表現することにします。条件づけられないので、脳のクセで直接認識することはできません。なので、脳のクセの中と外の間に、ギリギリ脳で認識できる「動き」という概念を用いて、間接的に認識できるようにします。

脳のクセの外について、数を例に考えてみましょう。

どんな数を挙げたとしても、それより大きい数や小さい数を挙げることができます。部分だけ、違いだけ、有限化してとったものが数です。まず、「有限化してとる」の条件をはずしてみましょう。

お気付きの方もいると思いますが、どんな数よりも小さい数は無限小、記号で書くと0です。どんな数よりも大きい数は無限大、記号で書くと∞です。0と∞は脳のクセの外の数です。これで、無限をとることができました。

0と∞は、全然違う数に見えると思います。なぜなら、まだ0と∞は、無限小と無限大という「部分だけ」「違いだけ」をとっているからです*1。これをやめると、どうなるでしょうか?

まず、違いだけをとるのではなく、同じをとると0と∞は同じ、記号で書くと0=∞になります。

これは一体どういうことでしょうか?「違いだけをとって」、自分の知識という「過去と繋げてとる」と、この2つは違う数だと思ってしまい、混乱するかもしれません。なので、ここはこのように考えてください。

「0と∞は数としては違うけど、この違いを生み出す、『仕組み』は同じ」です。

0と∞を生み出す仕組みを、0から∞への変化、∞から0への変化が同時に、目に見えないスピードで起きる「動き」とイメージしてみたらどうでしょう。空間的にイメージしてみましょう。0は点、無限大は境界線のない、外のない最大の空間です。これらが、とんでもないスピードで入れ替わるので、同時に成り立っているようにしか見えない、そんなイメージです。この変化のスピードは、どんなスピードでしょうか?もし、時間がかかってしまったら、0=∞が成り立たなくなってしまいます。したがって、この変化は時間がかかりません。これで、時間概念の外に出ているので、「過去と繋げてとる」をやめた「今ここでとる」認識方式です。

まとめると、脳のクセの外とは、0=∞であり、0と∞を成り立たせる1つの仕組みのことです。この変化、この動きだけは、脳のクセの外で働いています。この「動き」1つだけが、脳のクセに条件づけられない絶対的な判断基準であり、知識です。本記事の末尾に記載している本では、これを象徴的に0=∞=1、という記号で書いています。

2. 全ての知を説明するメタ知とは

0=∞=1が脳の外についてギリギリ理解可能な、脳のクセの中での理解方式です。この数式が表す条件づけられない「動き」は、部分も有限も含む概念ですから、条件づけられた脳のクセによる認識を内包しています。言い換えると、知が生まれる仕組みを説明する知、つまりメタ知であり、全ての知が生まれる仕組みを説明することができます*2*3

森羅万象全てが、本質的に「動き」だということがわかるでしょうか?この「動き」と現実世界との関係はどのように繋がるのでしょうか?考えてみましょう。人は脳のクセでとれる対象だけを認識できるので、人が認識する現実とは、「動き」の部分だけ、違いだけ、過去と繋げて有限化してとったもの、ということになります。脳のクセと「動き」との関係がわかりましたので、これで全ての知を「動き」で説明できました。詳しくは、下記の書籍を参照ください。

では、この理解は心の平安にどう繋がるでしょうか?いま私達は「動き」というモデルで、全ての知、全ての存在を理解することができています。全ては「動き」です。もし動きとして理解されないなら、不完全な知にハマっている、ということになります。全てが「動き」なので、悩みが存在する余地もはやありません。つまり、全てを自分の判断基準ではなく「動き」で理解することにより、心の平安が得られるのです*4このように、全ての理解は、0=∞=1の動き1つに収斂します*5。面白いことに、理屈で理解できる解析だから、理屈で受け入れられます。凡ゆる悩みを「動き」に還元できるますので、この解析を習慣化すると悩みは勝手に雲散霧消していきます*6。このことが、心の平安を結果としてもたらすのです。

3. メタ知自身を含めた全ての知(=全知)をメタ知で手放す(=無知)

最後に残った問題に取り組む前に、ここまでの振り返りをしましょう。まず、脳のクセの外を「動き」で説明しました。そして、「動き」を脳のクセで認識するとあらゆる知になることがわかりました。もはや全ての知が理解できる、全知に至っています。しかし、「動き」も脳のクセの中で認識する知には違いないですよね?これはどのように理解すれば良いでしょうか?知の仕組みを理解して全知に至っても、それ自体が知なら、やはり不完全だという結論にハマりますか?これは、「知は不完全だから、不完全な知を整理できない。」という、ゲーデル不完全性定理の主張と本質的に同じ主張で、「知の不完全性」と言えるでしょう*7

しかしこれは、「知は不完全だから、不完全な知を整理できない。」という知に捕まっている状態です。全ての知は動きであり、知ることのできないものですから、このようき、全知を説明する動きについて「知」ろうとする考え自体が、既に「動き」だけで解析することを妨げます。そのことに気がついて、「動き」についての考えを手放すことで、知の不完全性から解放されます。無知こそが完成形*8、ということです。知を手放して、全てが動きそのものになり、その認識すらも手放した境地が、知の不完全性を克服した、いわば「無知の完全性」です*9

この境地を獲得したとき、既にあなたは、心の平安についての考え感情を手放して、心の平安そのものになっていることでしょう。

全知、無知は選択である

メタ知についてのポイントをまとめておきましょう。

メタ知を使って知の不完全性にとどまるか、メタ知を使って知を手放し、無知の完全性に至るかは、どちらが正しいということではありません。そもそも、メタ知によるメタ知の正当性は、ゲーデルの不完全性により証明できません。だから、メタ知を得てやるべき事があるとしたら、どちらの立場生き方をとるかの選択だけなのです。知の不完全にとどまれば、今までと同じ限界にとどまる生き方です。無知の完全性に至れば、いかなる知にも支配されず、自分で必要に応じた選択が可能です。あなたはどちらを選びますか?シンプルに、それだけのことなのです。

終わりに

ここまで、いかがでしたでしょうか?脳のクセの中と外の間を結ぶ「動き」について説明し、「動き」すらも脳のクセの中と気づくことで、「動き」ごと全ての考え感情から自由になれることが、わかりましたでしょうか。「動き」とは独特の概念です。脳のクセの中で認識可能な概念でありながら、脳のクセの中と外についての説明を可能にしています。まるで磁石のN極とS極の間のような、この特殊な概念を説明するのにぴったりな日本語があります。それは「間(ま)」です。認識可能な脳のクセの中と、認識不可能な脳のクセの外を仲立ちし、包括する「動き」をあらわすのに、これ以上の言葉はありません。この「間」は、森羅万象を創造する仕組みでもありますから、「間」を理解することは、過去に縛られない自由と、何物にも縛られない自由でもあり、自分自身が脳の描く宇宙全てを創り出すことを可能にします。新しい人生を、今からここから、スタートさせることかできるのです。

宇宙一美しい奇跡の数式

宇宙一美しい奇跡の数式

*1:これはよく考えたら不思議なことです。∞はどんな正の数よりも大きいけど正の数ではない。0は、どんな正の数よりも小さいけど正の数ではない。正の数ではない0と∞は、どんな正の数とも語ることはできないので、0と∞を区別する術はないはずだ。違う数に見えるのは単に、有限な数との大小比較が定義に使われているからだ。

*2:0=∞=1は脳で認識できない動きなので、無と表現することもできます。つまり、無から有が生まれる宇宙創世の仕組みの説明にもなっています。宇宙を動かす仕組みと同じ仕組みで脳が動き、脳が意識を生むと考える唯物論を説明することができます。

*3:唯識論をも網羅することができます。他の人と同じ受け止め方で物事を見ることはありません。したがって、それぞれの脳が森羅万象にそれぞれの解析をしているので、いわば、人の数だけ宇宙がある、あるいは、人の脳がこのような宇宙を見せています。脳のクセにより、見えている宇宙は不完全な、脳の作品です。その意味で「動き」は脳のクセでみる心の外でもあります。つまり、心とは「動き」だ、とも言えます。これは、般若心経のような仏教的悟りの世界とつながる論理です。後の脚注で、9段階禅定という禅の悟りとの関連を簡単に説明しておりますので、ご覧ください。

*4:全ては動き、動き1つだけがあると繰り返しイメージして、自分の判断基準で物事を見ること、解析することをやめます。まじないや念仏に近い印象をもつかもしれませんが、論理的に得た絶対知識で解析しているだけです。信じるのではなく、解析の再選択です。

*5:ルカによる福音書 第9章43b節〜50節 曰く「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

*6:これは9段階禅定だと8段階目の悲想悲悲想処にあたります。

*7:不可知論とも言いますね。

*8:無知の知」という言葉もありますが、ここではこれをさらに進めて、知り得ない「動き」だけが知の本質のメタ知で、そのメタ知をも忘れること、積極的に無知を選択することを指しています。

*9:9段階禅定の、9段階目である滅尽定、想受滅にあたります。