心塾#3(源泉力:身体的自分とABC理論)

嫌いなブログ、嫌いな勉強

のっけから不安な見出しである。

僕はブログを書くのが嫌いである。

何かキチンと書かねばならない気がする。整理された考えを、わかりやすく伝えねばならない気がする。もう嫌になってくる。

僕は勉強が嫌いである。

何かをキチンと理解せねばならない気がする。勉強するほど、まだこんなに分かってないのかと嫌になる。前勉強してたあの本や動画に取り組んでた方がよかったんでは?と思う。もう嫌になってくる。

身体的な自分がビリーフを変えるとき

いったいこんなに勉強嫌いな僕が果たして今までどうやって生きてきたのだろうか。

果たして、思い返すと僕は勉強自体は昔からどうも好きではなかった気がする。にも関わらず、比較的算数や理科のテストの点数は高かった。ではよく理解していたかというと、あまりそんなことはない。点数が伸びる理由も、伸びない理由も、僕は大学院受験に合格してもなお、わからなかった。

紆余曲折を経てわかったことは、僕の能力が伸びるときは概して教わったことが感覚的に面白くて、何度も何度も反芻していたから。ただそれだけである。

それをできるだけ効率よく誘発するためには、よりよいやり方と僕のやり方の違いを明確化すれば良いのだと気づいたのは、就職してから8年も経った後だった。

仕事なるものをいただいて、根気よく教えてもらって、しかし違いがわからなかったために、仕事経験や先輩方の指導も指摘も、僕にとっては使い物にならない、今と全く繋がらない、ただの知識経験記憶の断片にしかならなかったのである。

勉強は苦しいから嫌いだ。しかし面白いものを反芻して身につけることならできる。想像して、なるほどと思って、頭の中でこねくり回してるうちに僕の中に知識や経験から一種の感覚が生じる。味覚や触覚に似た、ある種の触り心地、つまりクオリアである。

ならば僕は今後何かを身につけるのに勉強なんて必要なくて、ただ反復して触って遊んでさえいればよい。そして、それに勉強と名前をつけてしまえばいい。

そう、僕にとって勉強の規定が、苦しみながら覚えたら理屈を考えるものから、ごっこ遊びをしまくって本物に変えるという遊びに変化したのだ。それは、今この瞬間もそうだ。

それに伴って、僕のビリーフは「勉強は苦手」から「勉強はできる(=遊び尽くす)」、という風に変化した。

身体的な自分のビリーフチェンジは、個別的で経験的で発見的である。

ビリーフありきで物事に取り組んでも、イヤと感じる原因となるビリーフがあれば、イヤと思うままである。

だからそれを変えれば良いわけだけれど、ここで一つの懸念がある。
さっき書いたような勉強に関するビリーフの変化は、一体全体どれだけの人に必要で、共有する価値があるものなのか。あるいは一体全体、僕がもってる他のビリーフを変えるのに、何か役に立つのだろうか。

この勉強に関するビリーフの変化から強いて学べるものがあるとすれば、ビリーフの変化も勉強同様にごっこ遊びをたくさんすることだろうか。

ビリーフを一つ一つ掘り起こしては、何かの拍子に「あぁ、そういうことなのか」とハッと気づいて、「これからはこうすれば良いんだな」と、今までより少し生きやすい人生を手に入れる。

そうするしかないのだから、そんなものだろうと割り切る。身体的自分はそうするしかない。なぜなら何事も全体は見えないし、やってみないとわからないからだ。

このやり方は、通用する人もいれば通用しない人もいる。身につけたい事柄について僕は割と延々とイメージをこねくり回せる人で、音楽の耳コピにせよ、先輩のアドバイスを思い出すにせよ使える汎用性の高いスキルなのだけど、「仕事のアドバイスを延々と思い出す」というところに引っかかって、僕の話を聞くフリになってそうな人は何人もいた。

個別具体的な出来事に対する、個別具体的なビリーフの変化で、そして僕という個別具体的な人専用のやり方。

身体の範囲までが自分からと思っている場合、ビリーフの変化についての話は、単に「僕の場合はこうでした」という話にしかならない。

身体的自分から、意味的自分へ

僕の場合、を超えるために、自分の人生を外から眺める、という方法がある。

今起きているこの体験経験は、あるいはこの人生は、自分にとってどんな意味があるんだろう?と問い始めると、ビリーフの変化を獲得するのに「とりあえずやってみる」方式よりは、もう少し使い勝手の良いやり方が開かれる。

例えば、こんな問いを投げてみよう。

  • なぜ自分は生まれてきたのか?
  • この宇宙と自分はどんな関係なのか?
  • たくさんの人間が生きているなかで、なぜこの人間の意識だけを体験しているのか?なぜよりによってこの人間の意識だけを私自身だと思っているのだろう?

これらの質問への答えは、実は本質的には何でもよいし問題ではない。

重要なことは、自分の体験経験全てに通じる意味や目的を問い、「これが人生の意味だ!目的だ!」という答えを持つ人は、その意味や目的に沿ってビリーフを主体的に選択する、その意志を持つようになることだ。

身体の範囲を超えて、身体の外から意味を与えられた自分を仮に意味的自分と呼ぶことにする。

何もかもが博打だった先ほどの身体的自分と比べて、生きる意味を知った意味的自分とでは、体験経験の受け取り方が全く異なる。また、基本的にあらゆる出来事を生きる意味から捉え直すことを通じて、ビリーフの変化が当たり前になっていく。

何故なら、意味的自分は、何かに出会うと常に「ああ、これも生きる意味から問われてるんだな」「じゃあ、生きる意味に照らしてこう解釈しよう」という発想を持っている。その発想からビリーフを変えることが、生きる意味を手に入れて意味的自分へと変化した瞬間から、生き方に含まれるからだ。

TOEIC勉強ノート#1

スタディサプリで学んだこと、気づいたことを書きます。

Whyを用いた文

Why are there 〜?

ワヤゼ〜?と聞こえる。ファイ アー ゼア とは聞こえない。

単語

track: 線路
overpass:陸橋
diner:食事客
stack:〜を積み重ねる
be stacked together:一緒に積み重なっている
a row of:一列の〜
How come〜:どうして〜
sign up for〜:〜に申し込む
orderly:整然とした
flood barrier:防潮堤
job placement:就職斡旋
specialize in〜:〜を専門とする
orderly:整然とした ※形容詞

心塾ノート#2(源泉力)

おそらくいくらでも深められるテーマだ…と思いながら、一歩を踏み出すことにしました。

今あまりキレがないし、頭の中はふわふわだけれども。

全ビリとは

【ばんちゃんねる】
https://youtu.be/UjQq-b-S00I?si=H3bpYwO9avAUyn3F:ビリーフを変えると幸せになる理由

全ビリとは、全てはビリーフである、ということです。すなわち、

「全ての存在は自分のビリーフの投影である。したがって全ては自分のビリーフの選択次第である。自分が全ての存在を生み出す源泉であるならば、どう解釈して、どう生きるのか?」

という規定であり、人生への問いかけです。全てが自分のビリーフの結果なので、全てを自分の問題、自分の働きかけ次第で変化の可能性は無限大です。

さて、この話はいくつかのレイヤーから語ることができるのですが、それぞれ微妙に、しかし確実にニュアンスが違っていて、僕自身の認識できるレイヤーまでしか語れないのですが、それはそれで今の僕の現在地です。良いことにして次に進めてみます。

自分とは何か

全ては自分の解析の結果であるというのは、心塾では基本的にはABC理論を土台にしていると思います。

例えば、日曜日の14時から喫茶店で会う約束をしたとします。しかして約束の相手はいつまでも現れず、15時ごろ、「ごめん今日は行けない」と連絡が入りました。これをどう解釈しますか?人によっては、「何か大変なことがあったのかな?事情を聞いてみよう」と思うかもしれないし、また別の人は「自分は大事にされてない!前も友達が急に来れないって言ってたし…」と凹むかもしれません。この反応の違いはどこから来るのでしょうか?実は、何を信じているかによって変わります。自分はいつも人に受け入れてもらえないと思ってるか、思ってないかで、反応は全く異なるでしょう。このように、自分の反応を決定づけているような、自分が信じているものをビリーフといいます。ABCとは、それぞれAの出来事(Activating Event)、Bのビリーフ(Belief)、Cの結末(Consequence)の略で、ABC理論はCを変えるのにBの発見と変容を促す行動療法の理論です。

さて、本章のタイトルは「自分とは何か」です。なぜこのタイトルにしたかというと、「自分」の範囲は意外なほど様々な規定が可能で、どこまで規定するかによって話が全く変わるからです。

ごく簡単に言えば、自分の範囲は大きく3段階に分けることができます。

  1. 「身体が自分、身体の外は他者」認識の範囲は存在のみ。
  2. 「自分の身体と宇宙が自分」認識の範囲は認識可能な存在と非存在の全て。手塚治虫の火の鳥やブッダ、スピリチュアル、ワンネスの領域。
  3. 「自分と自分の宇宙は存在せず、認識不可能な何かだけが実在する」認識不可能だけが真実で、認識可能な全ては夢である。既に無限である。悟りの領域。

そして結論から言えば、自分の範囲を悟りの域まで広げてしまえば既に自分が無限の可能性の源泉そのものだとわかってしまうので、もはや源泉に立つを意識する必要もなく自在に解釈を選択して積極的な働きかけは可能になります。

参考:
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身体の自分にとどまっている私

しかして、しかしてそうなかなかうまくはいかない。

許せない人、受け入れられない出来事にとらわれている時、私たちは例外なく「身体が自分、身体の外は他者」のレイヤーにのみとどまっています。

人は私を受け入れてくれないに違いない!と信じてると、いくら悟りを語っても「でも、あいつが」「だってあんなことが」で終わりで、全く耳を傾けることはできません。悟ったらそこも自由になれるのでしょうけれど、悟れない自分はダメだ!と、ビリーフが増えたりします。もちろん、この状態では源泉に立つもクソもありません。

敵味方、あちらとこちらの境界線への執着には、凄まじいものがあります。

身体が自分の状態で源泉に立つ場合には、全て自分の解釈や対応の余地があると規定して取り組むことを指しますが、それも実際のところ厳しいでしょう。

では、何から始めるのか

目指すのは悟り(※)、そして、その中で生まれる抵抗や感情を炙り出して、許可して、新しいビリーフから規定し直すのをコツコツとやります。悟りは、全てのビリーフを手放すことによって、自分が限定されることのない、無限の可能性だというメタビリーフを獲得することでもあります。

※目指してしまうと、自分と悟りを切り離してしまって悟りじゃなくなるので、悟るためには悟るをやるしかないんですけどね。

与えるということ

今日昼休みに気づきました。

与えた分だけ人生と世界は豊かになる。

赤ちゃんがただそこに居るだけで、愛おしく、お世話するごとに愛らしく感じるように、

自分から人を、物事を、今を好きになり愛することを決めておくと、

たくさんのものに、時間に、環境に、過去に支えてもらってること、今たくさんの恵みに触れていること、そして、何も与えられずとも好きになり愛しく思う時間に既に与えられてることに気づくことができる。

常に、既に、たくさん与えられて生きていて、そこから溢れ出すこの生命なんだ。

心塾ノート#1 (Having、Doing、Being)

大阪心塾で学んだことをポツポツ書いていきます。

Having、Doing、Being

Having、Doing、Beingとは、自身の価値を何によって決めているかを3段階に分類したものです。

何であるかを表しているので、動名詞です。

My life depends on 〜.
に続けて、何が入るのかということです。

Having: 所有しているものによって自身の価値が決まる段階

例えば肩書き、学歴、能力、家、結婚など。手に入りやすい反面、周りの環境や相手次第なところが大きく、不安定です。

Doing: 行動によって自身の価値が決まる段階

例えば、人を手助けする、努力する、仕事をする、など。自分の選択次第という点では、周りの環境や相手に左右されにくいですが、人助けや仕事などに縛られてしまうと自己犠牲的になるし、人助けや仕事などが必要ない相手との関わりでは価値を感じにくいでしょう。

Being: ただ在るだけで自身の価値が決まる段階

天命を生きたり、あるいは悟ったりして、自らの存在そのものを歓喜とします。限られた生の、限られた条件で、いかなる現状困難に対しても可能性を無限大広げていくことができます。人助けが要らないなら、逆に何かに誘ってみてもいいでしょう。仕事が要らないなら、なぜ必要ないのかを聞いてみて、相互理解を深めるのも良いでしょう。何かやると決めていたら、ブレにくいものです。目指すものがより条件に縛られないものほど、何か手はあります。

認識不可能な素材の価値について

まだ何もアプリの入ってない、起動すらできない、真っ暗な画面のスマホを手に、僕は言います。

「どんなアプリでも!自由に作ってオーケー!自分のブランドとして販売してオーケー!みんなで作ってもちろん構いません!改造?どうぞご自由に!アプリの作り方はいくらでも教えますよ!今はまだ何にもできませんが、可能性は無限大!全てはあなたの認識のとおり!あなたがスマホの何たるかを創るんです!」

そう言われて、
「えっ?電源つかへんの?メールもフェイスブックもできんの?めんどくさ!」
と思うのか、それとも
「やべぇ遊び放題や!最高にクールなスマホにしてやるぜ!この指とまれ!」
と行動を始めるのか、どちらでも自由だけど、どちらが楽しそう?

本当は、すっぽり手に収まってるこのスマホどころか、自分と自分の宇宙全てが点に収まっていてしかも、遊ぶも遊ばないも自由なんだけど、一体どちらが楽しそう?!?!!

意思不通

職場で文章を書くと、ほぼ、「何が言いたいんかわからん」と言われるか、スルーされるかの二択になる。図解込みでも同じ。作成する書類の評価がとにかく悪い。家でもちょっと長いラインを送ったりすると、本読みとは思えない、理解できない文章だと言われる。

人によって日本語の捉え方使い方の差はあると思うけれど、僕の場合、意思疎通不能なレベルの差、意味の絶壁がそこかしこに見られる。どうやら今自分が考えていること、普通に文章として書いてきたことの大部分は、実は誰にも理解できない。日本語ライクな僕専用言語で、思考し続けてきたらしい。もしかすると、そもそも思考になっていない。いずれにしても、他の人が普段使っている日本語を、まだ知らないらしい。僕はストーリーしか描けないけど、そのストーリーはそもそも伝達できない。

そして、話すときに使う言語は、たぶんまた別の言語だ。

言葉も思考も何もかも、一度更地にして建て直すしかない。