哲学すごくない?
今日は、哲学すごくない?という話。
飲茶氏の書籍が、また一つ文庫本になった。以前に出た、史上最強の哲学入門シリーズと合わせて読むと面白い。
14歳からの哲学入門: 「今」を生きるためのテキスト (河出文庫)
- 作者: 飲茶
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2019/03/06
- メディア: 文庫
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飲茶氏によれば、哲学者は新しい価値を見出す人のことらしい。
一般人①「A_0がいい!」
一般人②「A_0はいや!」
哲学者 「...A_1でよくね?」
一般人①②「「ほんまや」」
あとやることは同じ。
一般人①「A_nがいい!」
一般人②「A_nはいや!」
哲学者 「...A_n+1でよくね?」
一般人①②「「ほんまや」」
例えば、デカルト。デカルトが生きたのは、教会の権威が弱まり、合理的思考が流行った時代。
ならば、哲学者たちはそこに挑む。合理的思考の前に、そもそも人間の認識は正しいのか、その根拠は何か、限界はあるか、と。
デカルトは、人間の認識の正しさを疑いまくってみて、疑いえない認識があれば、確実な認識にたどり着くからとにかく歌うというアプローチ、方法的懐疑によって、挑んだ。例えば、
「Aを認識する」
これは、正しいか正しくないか、わからない。しかし、
「「Aを認識する」を疑う」ことができる。これが正しいか正しくないかわからなくても、「「「Aを認識する」を疑う」を疑う」ことができる。マトリョーシカのように、いくらでも。
つまり、「...を疑う私」の存在だけは疑い得ない。疑いもまた認識だから、
「...を認識する私」は間違いなく存在する(①)。
一方、「人間は不完全で有限だから、完全で無限の実在(=神)を認識することはできない。」(②)
故に、「人間が無限の実在を認識するのは、それが人間の外から与えられたものだから。故に、無限の実在たる神は存在する。」(③)
神は完全なので、合理的でもあり、創造物も合理的。したがって、人間も合理的。これが、科学的な認識の正しさを示す根拠になっている、
「我思う、故に我あり」
だ。
なるほど、「ほんまや」である。
ところで、この「ほんまや」に挑んでみたくはないだろうか?
じつは、東洋哲学なら、この更に先を行くことができる。それも、2500年前の哲学で、である。
それでは、ヤージュニヤヴァルキヤ師*1にご登場いただこう。
先ほど、「...を認識する私」は存在する(①)と言ったのに対して、彼は疑問を投げかける。
「なるほど。では、①を認識しているのは誰だろうか?」と。
そりゃ「「...を認識する私」を認識する私」(①')じゃないの?
そう答えたなら、ヤージュニヤヴァルキヤ師は、不気味に微笑んで、きっとこう返す。
「それは、あなたが考えていることであって、あなた自身ではない。あなたのいう『私』とは、誰のことかね?」
これはかなり意地が悪いというか、答えられないタイプの質問である。
「...するのが私」という私は、キャンバスの上に描いた私のようなもので、描いている本人ではあり得ない。屏風の中の虎を出してもらわねば、一休はこれを捕らえられない。
どのように答えたとしても、その答えを言っている本人こそが私であり、答え方なんてそもそも関係ない。
「故に」
と、師は結論を言い渡す。
「私とは、...に非ずとしか言えない」
なんと!
唯一疑い得なく存在する認識主体の私を突き詰めると、語り得ない!
存在として語り得ない。これは、存在しないのと何も変わらないことになってしまう。言わば、
「我思う、故に我無し」
である。
ただし、この「無し」は注意が必要で、便宜上こういう字をあてたものの、正確ではない。そもそも語り得ないので、「存在しないのが私」と語ることすら許されない、本来なら有無の概念を超越した境地*2である。正確もへったくれもない。
さらに、彼なら、顎を撫でながらこう続けるかもしれない。
「すると儂は、神かな?」
どういうことかというと、先ほど「人間は不完全で有限だから、完全で無限の実在(=神)を認識することはできない。」(②)
と言ったが、これにも実は補足が可能である。
「私」を不完全で有限なものとして語り得ない以上、「私」もまた完全で無限の実在である。完全で無限の実在は区別できないので、『私』とは神のことである。このことは全ての人間に対して成り立つ。
つまり、
「我思う、故に神たり」(②')
なのだ。同時に、
「『私』は存在しないから、神も存在しない」(③')
が導かれ、デカルトを超えました。
少し注意してほしいのは、認識不可能と認識しているだけで、認識不可能という認識が成立している以上、実在を否定しているわけではない。なぜなら、否定という認識も不可能だからだ。
すごくないだろうか?
「我思う、故に我神たり」
と、言い切れてしまう。完全で無限の実在であることが、わかってしまう。
あまりに眩しいと目がくらんで見えないように、凄すぎて認識不可能なのが、「私」だという証明。
どうだろう、哲学。
すごくないだろうか?