いま希望を語るということ

最近、絶望や諦めが不満として他者に向けられ、次第に世界の緊張が高まっていくのを如実に感じるようになった。これをどう受け止めるか考えてみたい。異論はいくらでもあると思うけれど、それを言い始めると、何も言えない。そこで黙してしまうよりは、世界に広がる様々な考えや感情が、哲学的な読みと創造的な目的価値設定により、分断を終えることができる。そんな希望を提示できないか、と思うのだ。まとまらないまま、まとまらないなりに書いてみよう。

安藤礼二が「現代思想2018年10月臨時増刊号 総特集=仏教を考える」に寄せた論考のなかで、東洋哲学は折口信夫鈴木大拙井筒俊彦が相互に影響しあいながら、哲学的に一つの言明として総括されたことを指摘している(安藤礼二氏の「大拙」に詳しい記載がある)。

井筒は「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」の中で、大乗起信論に対し、信仰の詳細な在り方ではなく哲学的読みを与えるスタンスを取っている。こうすることで、イスラーム哲学を含む広範な東洋哲学に対して、現代の視座から共時的な共通構造(というメタ知識)を与える目的で解析を行い、これらが目指す究極が同一と読めることを示した。同様にイスラム教に対しても、プロティノスが「エネアデス」で示した「一者」を媒介として、哲学的には仏教、老荘思想イスラム教(スーフィズム)が同一の絶対者を指すと読めることを示した。イスラム教が本質的にユダヤ教キリスト教同一の内容を持ち、発祥当時の時代や文化的背景になぞらえて表現を変質させたものと解すれば、三大宗教に統一的かつ全一的な構造を与えることになる。なお、これは決して私個人の思い込みや短絡とは片付けることはできない。キリスト教と仏教は、マインドフルネスが広まるよりもっと前に、出会っている。

世界宗教の発明」という本の中にこんな記述がある。19世紀、キリスト教者たちは、キリスト教こそがもっとも古くもっとも偉大な宗教だと自認していたが、アジア各地に広がった仏教の原典を求めて文献研究を行う過程で、仏教がキリスト教より古く、信者が多く、しかも教えに共通点が多いことに衝撃を受けたという。この中で、キリスト教の優位を述べる立場も、仏教と本質的に同一とする立場も出現していたらしい。

例えばショーペンハウワーは「意志と表象としての世界」の中で、仏教をその論理性においてキリスト教より評価しており、「無」を主題として位置させていることは注目に値する。反論に目を向けてみると、例えばシュヴァイツェルは「キリスト教世界宗教」の中で、仏教を人生の否定と解釈し、人間の倫理を何も与えない点をして、キリスト教の優勢を語った。しかし全く不思議はない。なぜなら、哲学的な思惟は自己と世界と意識とが全て思い込みであり、実在を認識不可能であることを論理的に説明するが、それ故に、直接にはその目的や価値については何も与えないからだ。認識不可能な自己でありながらその目的や価値を認識するためには、宗教「的」な目的や価値を与える必要がある。

これらを結びつけるために、つぎのように考えてみたい。自己とはそもそも本来無限定無分節な実在であり、自己への認識は全て思い込みである(井筒を読んでいただくか、下記ブログにも少し記載がある)。

ここから、自己と世界と意識を生む目的と価値を理解する方法を2つ紹介する。

1つは、無限大創造可能であると気づくためにこそ、自分が、思い込みの自己を創造したのだと理解することだ。思い込むことなしには、相手が存在することはなく、どの相手でもない自分が存在することもない。全ては、思い込みにより、可能性限定することで現実化する。逆に、真実は可能性が無限大の無限定である。映画の中で、映画の全てを否定するから、映画を撮るカメラの向こうにいる観客のような認識主体(すなわち唯一絶対の真の自分、真の実在)を、間接的に認識することに成功するのである。

人は言語によって境界を認識する。優劣や善悪の境界を与えれば、境界は戦線になってしまう。戦線というのがピンとこないなら、子どもが運動場でドッジボールをするときのことを考えてみてほしい。運動場に線を引き、敵と味方に分けて、ようやくゲームが、戦いが始まる。境界はたしかにゲームを生むが、戦いも生む。

しかし、境界によってしかできない大事なことがある。それは、相手なくして自己はなく、有なくして無もなし、ということだ。つまり、自己と世界と意識とが本源的に認識不可能であることは、自己と世界と意識とが認識可能な対象ではないことによって、初めて認識可能となる。つまり境界は、無境界を知るための媒介として必要なのだ。

ドッジボールの相手がいれば、相手ではないことによって間接的にドッジボールをする自分を認識することができる。これは、相手がいないとできないことだ。そして、ドッジボールの戦いは、コートという境界を消せばいつでもやめることができる。敵と味方は一つにすることができる。本来、敵も味方もないことさえ、そこから理解できる。

2つめは、境界すなわち思い込みによって、相手を介して自己と世界と意識とを得ることが自体が、そもそもの目的であり価値である、と解することだ。宗教的な表現をするなら、神は、この世界を作った神を認めさせるために、世界と人間とを作った、という言い方が可能である。宇宙と宇宙のあらゆる物質をもたらす原理は境界であり、思い込みである、ということが可能である。人間の認識が思い込みであり境界であることと、思い込みと境界を介して初めて、認識不可能なものとして得られるこが自己と世界と意識であることだけを使い、この2つを人間が生まれる目的、価値、仕組みに適用する。この最小限の演繹で、外の論理を組み込むことなく人間存在の目的と価値は、理解できるのだ。

戦いを終わらせることは、境界を消すこと、いつでも無境界の実在だけを真実として生きることだ。だから僕は、このように、哲学的な読みと創造的な目的価値設定というアプローチが希望になりえるのではないかと、思う。