チューリング とAI

AIって何だろう。人間にとって代わる、万能の機械?本当に、人間の仕事は奪われるの?人間の完全な模倣なんてできっこない?

AIで飛躍的な精度の画像認証に成功したことを皮切りに、センセーショナルな話題いろんな憶測が飛び交っていますが、原理原則から考えると、ポイントを理解することができます。

AIの研究開発の黎明期において基本的な理念であり、証明したかった命題とは、「意識は計算である」です。その立脚点は、機械論的自然観と、唯物論です。

機械論的自然観とは、物質の宇宙について知るには、まるで機械をバラバラにして、部品の組み合わせ方、運動の仕方を見れば機械について理解できるかのように、自然の構成要素をバラバラにし、宇宙を成り立たせる基本的な物質、つまり基本単位を見つけ、その組み合わせ方と運動の仕方を見ればいい、という立場です。ニュートンは、まさにこの機械論的自然観の威力をまざまざと見せつけました。様々な物体の運動を、簡単な数式で表現でき、予想し、制御できることを示したのです。この影響がどれほど大きかったかは、経済学、組織論、社会学の黎明期にこぞって採用されたモデルであることに、見いだすことができます。大人気。

ざっくり言えば、知りたいものがあれば、それを分けていくことで構成部品がきっと見つかり、組み合わせや働きは計算可能な数式で書くことができ、全てが予想、制御できる、部品がわかれば全てがわかるという「信念」が、機械論的自然観です。

デカルトが提示した機械論的自然観は、人間の意識活動とは独立なものとして宇宙自然を捉えていましたが、この考えを人間の意識活動に適用した(代表的な)人物が、コンピュータの原理を生み出した唯物論者、アラン・チューリングでした。

チューリングの最も特筆すべき点は、人が行う意識活動の一つである計算そのものを数学モデルで表現した、という点です。チューリングは、人間の意識活動もまた、計算で表現できると考えていました。これは、人間の意識活動もまた物質の働きの一環とする立場(唯物論)に立脚し、その理論的な礎すなわち基本単位を計算(自然数とその足し算)だと考えていた、と言い換えれると思います。

また、ダートマス会議の6年前に出された、あまりに先進的なチューリングの論文があります。
https://www.csee.umbc.edu/courses/471/papers/turing.pdf
この論文では、チューリングテストについて述べています。知能とは何かについての直接的な言及は避け、意識活動のできる(というよりは思考できる)存在ならできるはずのことを、機械がどのくらいできるかをテストすることで、間接的に意識活動の可能性を測ろうとしています。チューリングは、このテストに合格する機械が2000年前には実現できると予想しており、暗に意識活動が機械に可能であるとの考えを示しています(ちなみに、人工知能の問題点、機械学習の原理など、知能を図るという文脈であまりに多くのことが書かれていて、あまりにもすごい論文です)。

つまり、「計算が意思活動の基本単位である。計算は機械で実現可能である。故に、意識活動は機械で実現可能である。」言い換えれば「意識は計算である」ということが、(すくなくとも黎明期の)AI研究開発者の証明したい命題だ、というわけなのです。

人の意識活動が固定した論理の下、完全に予想、制御が可能であるのなら、AIと人の意識とは同等です。狼と7匹の子ヤギに登場する狼のごとく、思いつく限りのテストを突破するAIは構成可能です。

人とは何なのか。人は何のために存在し、どう生きたらいいのか。明日にもAIに取って代わられる存在なのか。人は、ただ狼に食われる憐れなヤギを演じるしかないのか。

議論の立脚点を見つめる、きっかけにしていただければと思います。